【懐古】往年のプロ野球選手[ブレイザー]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


ブラッシンゲーム(通称ブレイザー)は、コリンス高等学校からリプスコム大学を経て、1953年にセントルイス・カージナルスに入団。1955年にメジャー初出場を果たし、1956年からはレギュラー二塁手として活躍。1958年にはオールスターゲームに出場し、1950年代末のMLBを代表する選手となった。1959年には日本プロ野球に触れ、南海ホークスとの試合で華麗なプレーを披露し、広岡達朗に影響を与えた。

1960年にはサンフランシスコ・ジャイアンツ、1961年にはシンシナティ・レッズに移籍し、ナショナル・リーグ優勝に貢献。1963年に故障で出場機会が減少し、ワシントン・セネタースに移籍後は再び二塁手としてプレーした。1967年に南海ホークスに入団し、愛称の「ブレイザー」で登録名を変更。攻守にわたる高いプレーで2年連続ベストナインを受賞した。

1969年に引退後、南海のヘッドコーチに就任し、野村克也監督の要請でコーチとしても活躍。野村はブレイザーの野球観を高く評価し、シンキング・ベースボールの重要性を選手たちに伝授した。1978年には広島東洋カープの一軍守備兼ヘッドコーチに就任し、1979年には阪神タイガースの一軍監督に就任。阪神では選手起用を巡りフロントと対立し、岡田彰布の起用を巡る問題が生じた。

最終的に、ブレイザーは1980年に監督を退任。彼の野球観や指導法は、南海や阪神の選手たちに大きな影響を与え、日本プロ野球界における戦略的なアプローチを促進した。