【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[南海龍(西前頭2枚目)]< 16 >

南海龍は西サモアの首都アピア市で生まれ、19歳の時に力士の公募に応募し、高砂部屋に入門。四股名は「南海龍」と名付けられ、1984年に初土俵を踏む。1987年には十両に昇進し、史上初の西サモア出身関取となる。筋肉質な体と力強い相撲で「サモアの怪人」と呼ばれ、期待を集めた。

しかし、彼は大酒飲みとしても知られ、稽古をあまりせず、飲酒トラブルを頻繁に起こしていた。泥酔状態でタクシーの運転手に絡んだり、ホテルのボーイを殴ったりと、問題行動が絶えなかった。兄弟子の小錦は彼の面倒を見ており、酒のトラブルを解決するために奔走していたが、南海龍の飲酒癖は改善されなかった。

1988年には酒の飲み過ぎで休場し、その理由が二日酔いであることが明らかになると、無断休場扱いとなった。師匠から「酒と相撲、どっちを取るんだ」と問われた南海龍は「酒は絶対にやめられない」と答え、そのまま故郷の西サモアに帰国。帰国時には髷をほどき、アロハシャツにジーンズ姿で「相撲道は僕に合わない。ロサンゼルスで音楽の勉強をしたい」と言い残した。

その後、南海龍は廃業届が受理され、番付には名前が残ったものの、出場はできなくなった。師匠の5代高砂はその後、急死してしまう。

廃業から2年後の1990年に再来日し、新日本プロレスの藤波辰爾が結成したドラゴンボンバーズに参加。しかし、入団前に「酒は一滴も飲まない」と誓約書を書いたにもかかわらず、デビュー戦の1週間前に泥酔状態でバイクを運転し、他人の車に投げ付ける事件を起こしてしまう。この問題が原因で新日本プロレスを解雇され、プロレスデビューすることなく帰国することになった。南海龍の相撲人生は、飲酒が唯一の障害となり、彼の才能を活かすことができなかった。