【懐古】プロ野球選手[ヒルトン]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


ヒルトン選手の経歴は、1971年1月にMLBドラフトでサンディエゴ・パドレスから全体1位で指名され、契約を結ぶところから始まります。1972年9月10日、アトランタ・ブレーブス戦でメジャーデビューを果たし、初安打を記録しました。1976年オフには金銭トレードでトロント・ブルージェイズに移籍し、その後クリーブランド・インディアンスに移るもメジャー昇格は果たせませんでした。

1978年、ヤクルトスワローズに入団し、主に1番打者として活躍。開幕から高打率を維持し、ヤクルトの球団創設初優勝と日本一に貢献しました。特に、初回先頭打者本塁打をシーズン8本打ったことは、長らくの記録となりました。彼の打撃フォームは極端なクラウチングスタイルで、全力疾走を貫く気迫あふれるプレーが特徴でしたが、守備面ではスローイングに課題があり、遊撃手から二塁手にコンバートされました。

1978年の日本シリーズでは、阪急ブレーブスとの第4戦で逆転2ランを放ち、シリーズの流れを変える重要な一打となりました。しかし、1979年は成績が低迷し、オフに自由契約となります。阪神タイガースに入団するも、岡田彰布の起用を望むファンの声にさらされ、打撃不振の末にシーズン途中で解雇されました。

帰国後は、1980年から1982年までピッツバーグ・パイレーツ傘下のAAA級ポートーズでプレーしました。引退後は、ミルウォーキー・ブルワーズのコーチやボルチモア・オリオールズ傘下のA+級フレデリック・キーズの監督を務め、さらに台湾球界で指導者として活動しました。1999年には高屏雷公で打撃コーチを務め、監督代行も経験しました。

2017年9月17日、アリゾナ州の自宅で亡くなったことが報じられ、67歳での死去となりました。彼のキャリアは、メジャーリーグから日本、さらには台湾に至るまで、多岐にわたるものでした。