一発芸


【懐古】記憶の片隅に残っている[一発芸・一発芸人編]を振り返る(テツandトモ)


テツandトモ、彼らの登場はまさに「なんでだろう〜」の一言から始まった!滋賀県出身のテツ(中本哲也)と山形県出身のトモ(石澤智幸)の二人組。赤と青のジャージを身にまとい、テツが踊り、トモがギターを弾くスタイルで、日常の疑問を歌い上げる漫談で一世を風靡しました。

彼らがブレイクしたのは2003年。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』とのタイアップで「なんでだろう〜」がエンディングテーマに起用され、CDも大ヒット!その年の流行語大賞にも選ばれ、まさに「なんでだろう〜」が日本中に広がりました。これを聞いたら、思わず口ずさんでしまう人も多いはず。


でも、彼らの道のりは決して平坦ではありませんでした。デビュー当初は漫才やコントを試みたものの、全くウケず、苦しい日々が続いていました。そんな中、トモがトイレに行った際に不意にメロディが降りてきたことで「なんでだろう〜」のネタが生まれ、これが大ヒットのきっかけに。まさにトイレの神様が降臨した瞬間ですね!

2002年には『M-1グランプリ』に出場し、決勝進出を果たしました。松本人志から「赤いジャージの子は友達としては100点」と絶賛され、立川談志からも「お前らはここに出てくる奴じゃないよ」と褒められるなど、業界内でも注目の存在に。彼らのパフォーマンスは、漫才の枠を超えた「弾き語りパフォーマンス」として新たな風を吹き込みました。


その後、2003年の紅白歌合戦にも出場し、はなわとの合同で「佐賀県なんでだろうスペシャル合体ヴァージョン」を披露。これで全国区の人気者となり、テレビやイベントに引っ張りだこ。彼らの持ち歌「なんでだろう」は、日常の素朴な疑問を歌い上げるスタイルで、観客を笑わせるだけでなく、共感も呼び起こしました。

テツは元々俳優志望で、トモはのど自慢チャンピオンという経歴を持つ二人。歌唱力も高く、時には演歌歌手のように歌い上げることも。彼らのネタには、似てないものまねや、日常のあるあるネタが満載で、観客を飽きさせません。特に「かならずいるんだよね」というネタでは、現実に起こる出来事を歌い上げ、笑いを誘います。


そして、彼らのジャージスタイルは、実は目立つために考えた結果。最初は高校のジャージを着ていたのが、いつの間にか特注の高級ジャージに進化。1着10万円の特注品で、ピンマイクも取り付けられるようにカスタマイズされているんですから、さすがプロ!

最近では、公式YouTubeチャンネルも開設し、さらなるファン層を拡大中。コロナ禍でも、彼らのユーモアは変わらず、家族との楽しい日常をシェアしながら、笑いを届けています。テツは「嫁とはコロナになる前から常にソーシャルディスタンスをとっている」と冗談を交えつつ、家族との絆も大切にしている様子。

テツandトモ、彼らの魅力は、ただの一発屋ではなく、しっかりとした実力派コンビ。これからも「なんでだろう〜」のフレーズと共に、笑いを届けてくれることでしょう。彼らの活躍から目が離せません!

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【懐古】記憶の片隅に残っている[一発芸・一発芸人編]を振り返る(ジョイマン)


ジョイマン、彼らの登場はまさに「なんだこいつ~!」という驚きから始まりました。神奈川県横浜市青葉区出身の高木晋哉と池谷和志の二人組。高木はボケ担当で、ちょっと薄めの頭髪と濃い体毛が特徴。池谷はツッコミ担当で、彼の大食いっぷりはもはや伝説。二人は中学時代からの友達で、バスケットボール部で控え選手としての青春を過ごしました。

がブレイクしたのは2007年の大晦日、テレビ番組「ぐるぐるナインティナイン おもしろ荘」でのこと。そこから「爆笑レッドカーペット」や「エンタの神様」など、ネタ番組に次々と出演し、ラップネタで一気に人気を博しました。高木の「ナナナナー、ナナナナー」というフレーズは、今や彼らのトレードマーク。これを聞くと、思わず口ずさんでしまう人も多いはず。

しかし、ブレイク後の道のりは平坦ではありませんでした。2010年には「旬じゃない芸人ルーム」に入れられ、ちょっとした失速感を味わったりもしました。M-1グランプリでは1回戦敗退という悲しい結果も。しかし、そんな逆境を乗り越え、2017年には「しくじり先生 俺みたいになるな!!」に出演し、高木が「エリート街道を歩いていたのに、何の役にも立っていない先生」として自らの失敗談を語る姿は、視聴者に笑いと共感を呼びました。

そして、彼らの名を一躍有名にしたのが「サイン会0人事件」。2014年、町田モディでのサイン会に参加者がゼロという衝撃の事態が発生。Twitterでその写真が拡散され、ネット上では大きな話題に。まさに「なんだこいつ~!」な出来事でした。しかし、彼らは諦めず、2021年にはVRChatでのサイン会で大成功を収め、リベンジを果たしました。

最近では、YouTubeチャンネルを開設し、池谷が単独での宅飲み配信を行うなど、新たな挑戦もしています。高木は「このチャンネルで踏める韻を全て踏み尽くしてしまった」と言い残し、卒業を発表。彼のラップの才能は、イギリスでも「Jamping Jap」と称されるほど。まさに、世界一のラッパーという説もあるくらいです。

ジョイマンの芸風は、最初は普通のコントから始まりましたが、ラップを取り入れることで独自のスタイルを確立。高木が白シャツ姿で登場し、池谷が「なんだこいつ~!」とツッコむ流れは、もはやお約束。最近では歴史上の人物を辛辣に罵倒する歌詞も増え、池谷がツッコミながらフォローを入れるという新たな展開も見せています。

彼らの活動は、ただの芸人としての枠を超え、様々なイベントやコラボレーションに参加し続けています。2023年、2024年には年間営業出演回数の最高記録を更新し、新幹線の移動も営業の実績だけでグリーン席に昇格。これは吉本で初の出来事だとか。

ジョイマン、彼らの道のりは波乱万丈ですが、いつも笑いを提供し続けてくれる存在。これからも「なんだこいつ~!」と驚かせてくれることを期待しています。彼らのラップネタやコントを見て、ぜひ一緒に笑いましょう!

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【懐古】記憶の片隅に残っている[一発芸・一発芸人編]を振り返る(ダンディ坂野)


ダンディ坂野、彼の名前を聞いて「ゲッツ!」と叫ぶ姿を思い浮かべる人も多いでしょう。彼のブレイクは1990年代後半、まさにお笑い界の波に乗った瞬間でした。今回は、そんなダンディ坂野の華やかな芸人人生を、ちょっと笑える感じで振り返ってみましょう!

まず、坂野さんはアイドルに憧れていた若き日々を経て、26歳で上京を決意。お金がなかったので、地元で働いて資金を貯める日々。そんな彼が1993年に東京にやってきたのは、まさに「遅咲きの花」って感じですね。最初は漫才コンビ「ラブリン」を結成し、ボケを担当していたものの、才能がないと留年。あれ?お笑いの世界も学校みたいなんですね。結局、彼はピン芸人としての道を選ぶことに。


1996年には大川興業の舞台でデビューし、テレビ埼玉の『パンドラ御殿』で初めてテレビに登場。そこで松田優作のモノマネを披露したり、ギャグ対決を繰り広げたりして、少しずつ名前が知られるようになりました。彼のキャッチフレーズ「第二でんでん」は、でんでんの芸風を受け継いだもの。なんだか、懐かしい響きですね。

そして、坂野さんの本格的なブレイクは2003年の「爆笑オンエアバトル」でのこと。そこで「ゲッツ!」が新語・流行語大賞にノミネートされ、彼の名は一気に広まりました。結婚もして、家庭を持ち、子供も生まれ、まさに人生の充実期!でも、ここからが坂野さんの面白いところ。彼は「ゲッツ!」の部分を他の名詞に置き換えるなど、迷走を始めたんです。これがまた、テレビでの露出が減ってしまった時期もあったんですよね。


しかし、2006年には『アメトーク』で「一発屋芸人BIG3」として再注目され、2008年には『ヘキサゴン』に出演。ここで一発屋芸人ユニットとしてCDデビューを果たし、再びブームが到来!坂野さん、やっぱり持ってますね。

2022年にはCM起用数が34本に達し、まさに「ゲッツ!」の勢いは衰え知らず。彼の「ゲッツ!」は、CMの尺にもぴったりはまるし、ポジティブな言葉だから視聴者を不快にさせない。これが坂野さんの強みなんですね。実際、彼はCMの方がテレビ番組よりもギャラが高いので、安定した生活を送っているとか。お笑い芸人としての成功を収めつつ、賢い選択をしているのが素晴らしい!


また、坂野さんのギャグは「面白くないネタを披露して、滑って気まずくなった空気の中で使う」のが本来の使い方。これがまた、彼の魅力でもあります。滑っても笑いに変える力、これぞプロの技ですね。

そしての髪の毛が薄くなってきたこともネタにして、「ハゲッツ!」なんて言っているのも、彼らしいユーモア。アデランスのCMにも起用されたりして、まさに「ハゲッツ!」から「ゲッツ!」へと進化を遂げているのです。

最後に、坂野さんのエピソードの一つ。幼稚園で「ゲッツ!」を叫んだら、子供たちに「ラミレスのまねだ」と言われてしまったこと。これには思わず笑ってしまいますよね。坂野さん、子供たちにとっては「ダンディ」よりも「ラミレス」の方が有名なんですね。

というわけで、ダンディ坂野の芸人人生は、笑いと涙の連続。これからも彼の「ゲッツ!」を楽しみにしています!

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【懐古】記憶の片隅に残っている[一発芸・一発芸人編]を振り返る(小島よしお)




芸としては一発芸の匂いがプンプンしてましたが、今でも子供達に大人気!

小島よしおの人生、なかなか面白いんですよ。彼のストーリーをざっくりお話ししますね。

まず、小島よしおは沖縄県久米島町で生まれ、千葉県千葉市で育ちました。父親は北海道出身、母親は沖縄出身というちょっと珍しい家庭。子供の頃から目立ちたがり屋で、学校ではコントをやったり、高校ではワンダーフォーゲル部に所属して山頂で謎の踊りを披露したり、卒業式では勝手に歌を歌ったりと、周囲を驚かせるのが大好きだったんです。

そんな彼の家庭は、父親が民社党の職員として働いていたものの、1994年に民社党が解党すると生活が困窮。父の単身赴任先ではガスや水道が止まることもあったとか。でも、母親が沖縄料理店を開業して家計を助けてくれたおかげで、なんとか乗り切ったようです。小島自身も母の手伝いで沖縄料理を作れるようになったとか。


高校を卒業した後は浪人生活を経て、2000年に早稲田大学に入学。大学時代はコントグループ「WAGE」に所属し、アミューズにも入って活動していました。メンバーにはかもめんたるの二人もいて、ここで表現者としての道を真剣に考え始めたそうです。大学時代は寝坊癖があって単位が取れず、結局2年留年しちゃったんですけどね。

さて、ブレイクのきっかけは2007年。第5回お笑いホープ大賞で決勝進出し、激励賞を受賞。その後、『ぐるぐるナインティナイン』や『笑いの金メダル』に出演したことで一気に注目を浴びました。特に「そんなの関係ねぇ!」と「オッパッピー」が流行語大賞にノミネートされ、見事にトップ10を受賞!ピーク時の月収はなんと1200万円だったとか。

でも、次第に仕事が減り始め、「一発屋」と呼ばれるようになってしまったんです。そんな中でも、2011年からは子供向けのライブを精力的に行い、徐々にファン層を広げていきました。自分自身を模索する中で「そんなの関係ねぇ!」を封印した時期もあったけど、2016年にはR-1ぐらんぷりで準優勝を果たし、再び注目を集めましたートでは、2016年に小松愛唯さんと結婚し、2024年には長男が誕生したことを公表。家族が増えて、ますます充実した日々を送っているようです。

小島よしおは、沖縄出身だけど千葉市で育ったため、テレビでは千葉県民として出演することも多いです。実は一時、小学校の教師になる夢を抱いていたこともあったんですが、WAGEの活動のため教育実習ができず、教員免許は取得していないんです。でも、子どもたちに勉強を好きになってもらいたいという思いは強く、自身のYouTubeチャンネルで算数を教える動画を投稿して好評を博しています。

趣味は漫画で、特に『おぼっちゃまくん』や『獣神ライガー』が好き。体型は筋肉質で、ベンチプレスも95kg持ち上げられるとか。見た目だけじゃなく、実力もあるんですね。

小島よしおの芸風は、ブーメランパンツ一丁で登場する「裸芸人」。彼の代表的なネタ「そんなの関係ねぇ!」は、体験談を話した後に「でもそんなの関係ねぇ!」と叫ぶ流れが特徴です。これ、見ている人を笑わせるのが上手なんですよね。


最近では、プロサッカーチームのセレッソ大阪の試合前イベントで自身のネタを披露したり、YouTubeチャンネルで型破りな授業を展開したりと、ますます活躍の場を広げています。これからも小島よしおの動向に目が離せませんね!

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【懐古】記憶の片隅に残る[一発芸・一発芸人]を振り返る(ヒロシ)



芸としては一発芸でしたが、現在はYouTubeでご活躍中です!

ヒロシは福岡県大牟田市で生まれ、熊本県荒尾市で育ちました。炭鉱の街で育った彼は、父親が炭鉱マンという家庭環境。小さい頃は貧富の差を感じることもなく普通に育ったんですが、ある日、いとこが「汚いから」と言ってヒロシの家に泊まらなかったことで、初めて自分の家が貧しいことを知ったんです。これ、ちょっと切ないエピソードですよね。

そんなヒロシが芸人を目指すきっかけになったのは、漫才ブームの真っ只中。特にツービートの漫才に憧れを抱いて、初めて生のお笑いライブを観たときにダウンタウンのパフォーマンスに衝撃を受けたんです。「お笑いで頑張ればモテるんだな」と思ったとか。まあ、モテたい気持ちが強かったんですね。

高校を卒業後、大学に進学したヒロシは、友達とトリオ「貴族」を結成してお笑いオーディションに挑戦するも、不合格。就職氷河期に突入し、就職活動は全滅。実家に帰った後、保険会社に就職するも、極度の人見知りで半年で退職。ここで「もうダメだ、芸人になるしかない!」と決意したわけです。

そして、23歳の時に再度オーディションに挑戦。今回は一人で出場し、中森明菜や近藤真彦の物真似を披露しましたが、またもや不合格。しかし、福岡吉本のスタッフが「どうしてもお笑い芸人になりたい人を募集中」と声をかけてくれたんです。ヒロシは「もう逃げ道はない」と思い、手を挙げました。


ここからヒロシの芸人生活が始まりますが、最初は雑用係として働く日々。ある日、突然「ライブをやるからネタを作ってこい」と言われ、ネタを披露したら所長に激怒されてスリッパを投げつけられる始末。これ、なかなかの洗礼ですよね。

その後、友納一彦と「ベイビーズ」を結成しますが、思うように売れず、東京での活動を考え、26歳で上京。共同生活をしながら、熊本弁でキレ芸を展開するも、観客からは「何を言っているのか分からない」と不評。これ、ちょっと悲しいですね。

そして、ホストとして働くことに。源氏名「冴神 剣」として働き始めたヒロシですが、厳しい労働環境に悩まされ、最終的にはホームレス状態に。そんな中、サンドウィッチマンに助けられることもありました。これ、まさに「生き地獄」ですね。

でも、ヒロシは諦めません。2003年の初日の出とともに実家に帰り、ネタを書き溜めることに。そこで生まれたのが「ヒロシです・・・」のネタ。これが後に大ヒットするわけです。

2004年には「エンタの神様」に出演し、ブレイクのきっかけをつかみます。ブレイク後、女性ファンが増えましたが、人見知りの性格からモテ期を楽しむことができず、風俗店に通うようになったとか。これ、ちょっと笑えるエピソードですね。

絶頂期には月収が1000〜3000万円に達しましたが、周囲からの陰口や週刊誌の暴露記事に悩まされる日々。ブレイクから数年後、ヒロシは事務所に「もうテレビに出ません」と宣言し、仕事が激減。生活が困難になり、精神的にも追い詰められ、パニック障害と診断されました。

そんな中、マネージャーの助けを受け、徐々に活動を再開。2015年には「しくじり先生」に出演し、再評価を受け、YouTubeチャンネル「ヒロシちゃんねる」を開設。ソロキャンプをテーマにした動画が人気を集め、再ブレイクを果たしました。

今やキャンプの達人として知られるヒロシ。彼のストーリーは、笑いあり、涙ありの波乱万丈。これからも彼の活躍に目が離せませんね!

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