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【懐古】プロ野球選手[ブーマー]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


ブーマー・ウェルズ(Boomer Wells、本名:グレゴリー・デウェイン・ウェルズ(Gregory DeWayne "Boomer" Wells)、1954年4月25日 - )は、アメリカ合衆国・アラバマ州出身の元プロ野球選手(内野手)。 1980年代後半の阪急・オリックスの主砲として、三冠王や最…
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### 大学時代とプロ入り前

ブーマーは1970年に北海道で生まれ、オールバニ州立大学ではNFL選手を目指していました。1975年のNFLドラフトでニューヨーク・ジェッツに指名されたものの、体重とパワーが足りずすぐに自由契約に。そこでアマチュアFAとしてMLB傘下と契約し、1976年にピッツバーグ・パイレーツ、1981年にトロント・ブルージェイズ、1982年にミネソタ・ツインズを経て、1983年に阪急ブレーブスに入団しました。

阪急がブーマーを獲得したのは1982年のオフ、ハワイのウィンター・ミーティングでのこと。最初はランディ・バースに目を付けていた阪急でしたが、ブーマーの長打力に注目し、ツインズと交渉を進めました。ツインズは最初は拒否していたものの、トレードマネーの支払いを条件に移籍を承諾し、ブーマーは阪急に入団することになりました。

ブーマー自身は阪急への移籍を望んでいたわけではなく、ツインズのオーナーが黒人嫌いであったために日本に売却されたという話もあります。彼は後に「自分では何にも決められなかった」と語っています。

### 日本での活躍

ブーマーは「ブームを呼ぶ男」という意味の名前を付けられ、日本に来る前に日本野球について情報を集めました。来日直後の春季キャンプでは、場外本塁打を連発し、メディアから「飛ばし屋」として注目されました。しかし、公式戦では打率は.307ながらも17本塁打に終わり、本人は納得がいかない様子でした。

1984年には打率.355、37本塁打、130打点を記録し、来日外国人選手初の三冠王とMVPを獲得。これによりメジャーからも契約の話があったものの、彼はそれを断っています。1985年には再び打点王を獲得し、1989年には首位打者と打点王の2冠を達成しました。

1988年には西武ライオンズ戦で162mの場外本塁打を放ち、記録を更新しました。また、1989年には「予告ホームラン」を打つなど、ファンを楽しませるエピソードも多くありました。

しかし、1990年には出場回数が減少し、シーズン終了後に腹部の腫瘍が見つかり手術を受けました。1991年は本拠地が広いグリーンスタジアム神戸になったことで本塁打が伸び悩み、オフには自由契約となりました。

### 引退後とその後の活動

1992年に福岡ダイエーに移籍し、点王を獲得しましたが、シーズン後半に絶不調に陥り、この年限りで退団。日本での10年間で打率3割以上を7回、30本塁打以上を5回、40本塁打以上を3回、100打点以上を5回記録しました。

引退後はオリックスの臨時打撃コーチを務め、その後は野球代理人としてアメリカと日本の野球界の橋渡し役として活躍しています。2012年には日本の野球殿堂に落選し、本人もこの結果に落ち込んだと語っていますが、2021年にはエキスパート部門で再び候補に追加されました。

### プレースタイルと人物

ブーマーは200cm、100kgの巨体を持ちながら、器用さと優れた選球眼を兼ね備えた打撃の名手でした。通算打率.317は、4000打数以上では落合博満を上回る成績で、自己分析でも「自分の本質はアベレージヒッター」と語っています。

守備でもゴールデングラブ賞を2回獲得し、試合前の練習では松永浩美とともにサードの守備位置でノックを受けたこともありました。阪急時代の同僚、山田久志は「ブーマーは数字を争っていたが、タイトルには固執せず、チームのためにプレーしていた」と語っています。

プライベートでは、娘を連れて球場に出入りする姿が目撃され、恐妻家としても知られていました。彼は1日の小遣いが2000円に制限されており、その中から食事代を出さなければならなかったため、食事はフライドチキンとうどんばかりだったそうです。上田監督が「たまには牛も食べなさい」とご馳走することもあったとか。

また、ハイタッチで同僚を怪我させてしまったエピソードや、試合中に奇声を発することがあったりと、彼のキャラクターも個性的でした。引退後もファンからの愛情は続き、サインを求められることを決して断らず、ファンとの交流を大切にしていました。

阪急ブレーブスへの愛着が強く、球団がオリックスに譲渡された際には不満を抱いていたこともありましたが、神戸を愛する気持ちは変わらなかったようです。彼の存在は、単なる選手にとどまらやスポーツ界におけるアイドル的存在として、多くの人々に影響を与えました。

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【懐古】プロ野球選手[バース]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


ランディ・バースのサムネイル
ランディ・バース(英語: Randy Bass、本名:ランディ・ウィリアム・バス(英語:Randy William Bass)、1954年3月13日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートン出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、政治家。 メジャーリーグベース
76キロバイト (10,093 語) - 2025年1月14日 (火) 09:51
## 阪神タイガース時代

1982年12月、バースは阪神タイガースへの入団が正式に決まりました。1983年シーズンの初めは、藤田平が一塁手として多用されていたため、バースは右翼手として起用されました。しかし、彼は幼少期の怪我の影響で全力疾走ができず、守備でも不安があったため、徐々に一塁手に固定されることになりました。

開幕からの出足は厳しく、オープン戦で死球を受けて骨折し、公式戦初出場は開幕5試合目となりました。初打席では三振に終わり、開幕から15打席無安打という球団助っ人最低記録を更新するなど、苦しいスタートを切りました。しかし、5月4日の対読売ジャイアンツ戦で初安打を放つと、5月7日の対ヤクルトスワローズ戦では初本塁打を記録。最終的には打率.288、35本塁打、83打点という好成績を残しました。また、シーズン終盤には25試合連続安打を記録し、これは2001年に桧山進次郎によって更新されるまで球団記録でした。

1983年のシーズン中、バースは解雇の危機に直面しました。阪神ファンは前年の躍進を受けて優勝を期待していましたが、チームは5月に3勝10敗と大きく負け越し、バースが不調の原因とされることが多くなりました。特に、同期入団のスティーブ・ストローターがミートの上手さから評価されていたため、バースは厳しい立場に置かれました。しかし、球団はバースのパワーと人格を評価し、彼を残留させる決断を下しました。これが功を奏し、バースは後半戦から調子を上げていきました。

1984年には打率.326を記録しましたが、本塁打数が減少し、再度解雇の危機に直面しました。しかし、監督に就任した吉田義男がバースの長打力を評価し、彼を残留させるように求めたことで、バースは再びチャンスを得ました。1985年には、元大洋ホエールズの長崎啓二を手本にミートバッティングを独自に習得し、掛布雅之、岡田彰布との強力なクリーンナップを形成しました。

この年、バースは4月17日の対巨人戦でのバックスクリーン3連発を皮切りに、破竹の勢いで打ちまくり、最終的に打率.350、54本塁打、134打点を記録し、三冠王とシーズンMVPを獲得しました。特に、バースを敬遠した場合でも4番の掛布がいるため、投手は勝負せざるを得ず、これがバースの成績向上に寄与したと言われています。

日本シリーズでは西武ライオンズとの対戦で、バースは第1戦と第2戦で決勝本塁打を放ち、シリーズMVPを獲得しました。阪神はこの年、2リーグ制後初の日本一に輝き、バースはその立役者となりました。特に、王貞治が持つシーズン55本塁打の記録更新が注目されましたが、バースは54本目を打った後、巨人戦での敬遠攻めに遭い、最終的には記録達成には至りませんでした。それでも、出塁率のタイトルを獲得し、打撃部門での活躍は際立っていました。

1986年には新ストライクゾーンが導入され、バースは再び素晴らしい成績を残しました。開幕戦では無安打でしたが、5月には6試合連続マルチ安打を記録し、打率を上げていきました。特に、6月には王貞治と並ぶ7試合連続本塁打のNPBタイ記録を達成し、シーズン長打率やOPSでも歴代記録を更新しました。しかし、MVPには選ばれず、広島の北別府学が選出されました。

1987年には落合博満との「三冠王対決」が期待されましたが、両者とも成績を落とし、無冠に終わりました。また、監督との確執が表面化し、バースは雑誌のインタビューで吉田監督を批判したため、球団から罰金を科せられる事件も発生しました。

1988年には、家族の疾病を巡るトラブルから解雇され、バースは阪神タイガースを去ることになりました。彼の退団は球団内でのトラブルを引き起こし、後に示談金が支払われることになりました。バースは34歳でまだ肉体的な衰えは見られず、MLBからのオファーもありましたが、結局この年をもって現役生活を終えました。彼の阪神タイガース時代は、数々の記録と共に多くのファンに愛され続けています。

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【懐古】プロ野球選手[モッカ]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


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ケネス・エドワード・モッカ(Kenneth Edward "Ken" Macha , 1950年9月29日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身の元プロ野球選手、監督。 実際の発音は「モッカ」というよりは「マッカ」だが、「真っ赤」と読まれるのを嫌った球団が本人の同意のもとで「モッカ
14キロバイト (1,160 語) - 2024年3月30日 (土) 13:12
ケネス・エドワード・モッカ(Kenneth Edward "Ken" Macha、1950年9月29日生まれ)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身の元プロ野球選手であり、監督です。実際の発音は「マッカ」に近いですが、球団の判断で「モッカ」として登録されました。アメリカ野球殿堂入りのハル・ニューハウザーは彼のおじにあたります。

ピッツバーグ大学から1972年のMLBドラフト6巡目でピッツバーグ・パイレーツに指名され、1974年にメジャーデビューしました。その後、モントリオール・エクスポズやトロント・ブルージェイズでもプレーしました。

1981年に中日ドラゴンズに入団し、4年間にわたり3番・三塁手として活躍しました。彼は3回の3割を超える打率を記録し、強竜打線の一員として活躍しました。特に1982年の中日優勝に貢献し、1984年にはキャリア最多の31本塁打と93打点を記録しました。1985年、高齢による守備の衰えと藤王康晴の育成方針により戦力外通告を受け、9月19日の巨人戦を引退試合として胴上げされました。

アメリカ帰国後、エクスポズのコーチやカリフォルニア・エンゼルスのコーチを務め、1995年から1998年はボストン・レッドソックス傘下のマイナーリーグで監督を務めました。1999年にオークランド・アスレチックスのベンチコーチに就任し、2003年にアスレチックスの監督に昇格しました。2006年にはアメリカンリーグ西地区で優勝したものの、デトロイト・タイガースに敗れて解任されました。その後、2009年からミルウォーキー・ブルワーズの監督を務めましたが、2010年シーズン終了後に解任されました。現在は地元の公立大学でコーチを務めています。

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【懐古】プロ野球選手[郭源治]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


画像提供依頼:郭源治の写真の画像提供をお願いします。(2024年9月) 源治(クォ・ユェンツ、かく げんじ、1956年10月5日 - )は、台湾(中華民国)の台東県台東市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。台湾原住民族のアミ族で、1989年9月に日本へ帰化。2024年現在の本名は佳久 源治(読み同じ)。…
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郭源治(1956年10月5日生まれ)は、台湾台東県台東市出身の元プロ野球選手です。彼は台湾原住民族のアミ族出身で、1989年に日本に帰化しました。

郭源治は台東県出身で、リトルリーグの台湾代表チーム・金龍隊の一員としてリトルリーグ・ワールドシリーズで優勝しました。彼はその後、華興中学・高校、輔仁大学で野球を続けました。

兵役後の1981年に中日ドラゴンズに入団し、1982年に先発ローテーションに入り、新人王を争う活躍を見せました。1984年にはシンカーを投げ始め、最多勝利のタイトルを争いました。1987年には最優秀救援投手を獲得し、1988年には7勝37セーブの成績でセ・リーグMVPに選出されました。

1989年に日本に帰化し「佳久源治」と改名。1990年から1994年にかけて先発に復帰し、1991年には13勝を挙げました。1994年にはNPB史上5人目となる100勝100セーブを達成し、最優秀防御率のタイトルを獲得しました。1996年には中日を退団し、台湾の統一ライオンズに入団しました。

郭源治さんは、台湾出身のプロ野球選手としてNPBで活躍し、日本に帰化した後も多くのタイトルを獲得しました。彼の優れたピッチングと精神力は、多くの野球ファンに愛され続けています。

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【懐古】プロ野球選手[テリー]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


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テリー・バートランド・ウィットフィールド(Terry Bertland Whitfield , 1953年1月12日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。NPBでの登録名は「テリー」。 1971年のMLBドラフト1巡目(全体の19番目)でニューヨーク・…
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テリー・ウィットフィールドさん(本名:Terry Bertland Whitfield、1953年1月12日生まれ)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(外野手)です。右投左打で、NPBでは「テリー」として登録されました。

1971年のMLBドラフト1巡目でニューヨーク・ヤンキースに指名され、1974年にメジャーデビュー。1977年にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍しました。1981年に西武ライオンズへ入団し、3年間プレーしました。その後、1984年にロサンゼルス・ドジャースと契約し、メジャーに復帰しました。1986年に現役を引退しました。

1981年に西武ライオンズに入団し、3年契約を結びました。西武は彼の獲得に多額の費用を投じ、その結果、彼の活躍によりチームは強化されました。彼は初球に強く、積極的な打撃が好成績につながりました。また、明るい性格で、日本語でのユニークなインタビューも行いました。彼は「テリーズ・ボックス」と名づけた席を設けて、恵まれない子供たちを招待するなどの心遣いを見せました。

1983年のオフに契約延長が望まれましたが、代理人がメジャーの数球団と入団交渉を行ったため、西武との再契約が成立しませんでした。西武退団後、1984年にロサンゼルス・ドジャースと3年契約を結び、メジャー復帰を果たしました。1986年に現役を引退しました。

テリー・ウィットフィールドさんは、MLBとNPBで活躍した外野手で、特に西武ライオンズ時代には打撃でチームを支え、明るい性格と礼儀正しさでファンからも愛されました。彼の功績は、野球界において今も語り継がれています。

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