プロ野球


【懐古】往年のプロ野球選手[ライト]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


カーソン・ニューマン大学で活躍した後、ミネソタ・ツインズからドラフト指名を受けて入団した彼は、1966年6月15日にカリフォルニア・エンゼルスでメジャー初登板を果たしました。この試合では4安打完投勝利を収め、フルシーズン3年目の1968年には10勝6敗という好成績を残します。しかし、1969年は不調に見舞われ、1勝8敗に終わりました。

その後、チームメイトのジム・フレゴシの勧めでウインター・リーグに参加し、スクリューボールとチェンジアップを習得。1970年には22勝12敗、防御率2.83という自己最高の成績を記録し、ア・リーグカムバック賞を受賞しました。同年7月3日にはオークランド・アスレチックス戦でノーヒット・ノーランを達成し、これはエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム開場初のノーヒッターとなりました。2009年終了時点で、エンゼルスの球団史上唯一の左腕の20勝投手としても知られています。

その後も1972年に16勝17敗、1973年に18勝11敗、1974年に11勝19敗と2桁勝利を記録しましたが、1974年にミルウォーキー・ブルワーズに移籍し、1975年にはテキサス・レンジャースに移籍。メジャーでの通算成績は100勝に達しました。

1976年4月28日、彼は読売ジャイアンツにMLB出身の外国人投手として球団初の入団が決定し、5月6日に来日。3シーズンにわたってプレーしました。普段は好人物でしたが、気性の激しさから「クレージー・ライト」と呼ばれ、審判や相手打者とトラブルになることが多く、自分のユニフォームを引きちぎったり、カメラマンのカメラを叩き潰したりすることもありました。1978年7月15日に事実上の退団が決まり、翌日には現役引退が正式に発表されました。


引退後は実業家に転身し、CLYDE WRIGHT'S TENNESSEE BAR-B-QUEを経営しました。ジャック・ダニエルズを隠し味にしたポーク・サンドイッチをエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムで販売し、長蛇の列を作る人気を博しました。2018年4月29日には、エンゼルスの球団職員として紹介されるなど、野球界との関わりを続けています。

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【懐古】往年のプロ野球選手[シェーン]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


リチャード・アラン・シェインブラム(リッチー・シェインブラム)は、1942年11月5日生まれのアメリカ合衆国・ニューヨーク州出身のプロ野球選手で、外野手として活躍しました。1964年にクリーブランド・インディアンスと契約し、1965年にメジャーデビューを果たしました。1968年にはカンザスシティ・ロイヤルズに在籍し、オールスターゲームにも出場。1972年にはシーズン打率.300を記録し、リーグで6位にランクインしました。

1975年、シェインブラムはセントルイス・カージナルスから広島東洋カープに入団し、登録名を「シェーン」としました。この名前は、ファミリーネームが長いためと、西部劇『シェーン』にちなんでいます。広島では、ゲイル・ホプキンスや山本浩二、衣笠祥雄と共にクリーンナップを形成し、1975年のセントラル・リーグ初優勝に貢献しました。特に、1975年5月17日の対大洋ホエールズ戦では、日本プロ野球で初めて1試合左右両打席本塁打を記録しました。

シェインブラムは敬虔なユダヤ教徒であり、1975年9月14日の対読売ジャイアンツ戦では、宗教的理由から欠場しました。1976年には打率.307、20本塁打、62打点を記録しましたが、守備の難が影響し、同年限りで退団しました。2021年5月10日に78歳で死去しましたが、明確な死因は不明とされています。

シェインブラムのエピソードとして、広島市民球場での試合中に観客からのリクエストに応じて、帽子の中に鳥を入れておき、帽子を取ると鳥が飛び立つというパフォーマンスを披露したことがあります。また、彼の息子モンテはプロゴルファーとして成功し、1992年には全米ロングドライブ選手権で優勝するなどの業績を残しています。シェインブラムは、プロ野球界において多くの記録とエピソードを持つ選手でした。

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【懐古】往年のプロ野球選手[マーチン]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


トーマス・ユージーン・マーチン(ジーン・マーチン)は、1947年1月12日生まれのアメリカ合衆国・ジョージア州出身の元プロ野球選手で、外野手や内野手として活躍しました。1965年のMLBドラフトで3位指名を受け、ワシントン・セネタースに入団。1968年にはメジャー初昇格を果たし、主に代打として9試合に出場しましたが、その後はメジャーでの出場機会が減少しました。

1972年にはメキシコリーグのペトロレロス・デ・ポサリカでプレーし、1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せました。1973年にはパシフィックコーストリーグで本塁打王と打点王の二冠を獲得し、その後1974年に中日ドラゴンズに入団しました。中日では、与那嶺要監督の熱意により入団を決意し、来日1年目に35本塁打・87打点を記録し、リーグ優勝に貢献しました。

その後も安定した成績を残し、1976年には40本塁打・104打点をマーク。特に固め打ちが得意で、1試合3本塁打を3度記録し、1976年には1試合2本塁打以上を年間10度達成しました。1979年には横浜大洋ホエールズに移籍し、同年限りで退団しました。

引退後は1981年にメキシコリーグのポサリカに復帰し、リーグ3位の19回の敬遠四球を記録しました。彼のトレードマークである禿頭は、ベトナム戦争に参加した際に鉄兜を長時間が原因だと語っています。マーチンは日本プロ野球においても重要な存在であり、特に中日ドラゴンズでの活躍が際立っています。

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【懐古】往年のプロ野球選手[ラフィーバー]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・


ラフィーバー選手の経歴は、1962年にロサンゼルス・ドジャースにバットボーイとして契約したことから始まります。1965年4月12日にメジャーデビューを果たし、新人ながら二塁の定位置を獲得し、157試合に出場。打率.250、12本塁打、69打点を記録し、リーグ優勝に貢献しました。1966年にはオールスターゲームに出場し、24本塁打を記録。1972年には70試合出場で打率.201に終わり、シーズン終了後にFAとなります。

1973年にはロッテオリオンズに入団し、初年度に自己最多の29本塁打を記録。1974年にはリーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献し、1975年からは一軍コーチ兼任となりました。1976年には再び現役復帰し、パ・リーグ初の1試合左右両打席本塁打を達成しましたが、金田正一監督との対立や外国人枠の関係で一時現役を引退します。

その後、1977年にロッテの一軍打撃コーチ兼スカウトとして活躍し、レロン・リーを入団させるなどの功績を残しました。1978年にはドジャース傘下のルーキーリーグ監督に就任し、1979年にはドジャースの打撃コーチとなります。

引退後は、ジャイアンツ、アスレチックス、マリナーズ、カブス、ブルワーズ、レッズ、中国代表などで監督やコーチを歴任。特にマリナーズ監督時代には球団史上初のシーズン勝ち越しを達成し、カブスではサミー・ソーサを獲得し、30-30を達成させるなどの成果を上げました。2002年には中国代表監督に就任し、北京オリンピックでも指揮を執りましたが、最下位に終わり退任。2008年オフにはパドレスの打撃コーチに就任しましたが、2009年シーズン途中で解雇されました。彼のキャリアは、選手としての成功とコーチとしての貢献が融合した多彩なものでした。

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【懐古】往年のプロ野球選手[アルトマン]が懐かしすぎてマジ泣ける・・・

1968年にNPBの東京オリオンズに入団したアルトマンは、日本での成功を目指して武道のトレーニングを行いました。初日のフリー打撃では、チームメイトたちの注目を集め、見事な打撃を披露します。最初は自前のバットが届かず、他の選手のバットを借りて打席に立ちましたが、最終的には自分のバットで本領を発揮し、1年目にして打率.320、34本塁打、100打点を記録。これにより、打点王とベストナインに輝きました。アルトマンは選球眼が良く、対戦投手の情報をノートに記録して次の打席に生かすなど、若手選手への指導も行いました。彼の姿勢はオリオンズナインに大きな影響を与えました。

1969年には打率が低迷しましたが、1970年と1971年には2年連続でベストナインに選ばれ、1970年にはリーグ優勝に貢献します。日本シリーズでは巨人と対戦し、アルトマンは5打席中4打席が四球という新記録を樹立しました。特に、11月2日の第5戦では、打球を追う途中でチームメイトの飯塚佳寛と衝突し、倒れた飯塚を介抱する姿が多くの人々に感動を与えました。この行動は、目先の勝利よりも仲間の安全を優先する姿勢を示しました。

1972年にはコーチ兼任となり、熱心な指導が日本一に結びつきました。1974年まで常に20本塁打以上を放ち、NPBでの活躍を続けましたが、腹部に異変を感じ始めます。初期の大腸癌を患っていたアルトマンは、体調不良を隠しながらプレーを続けましたが、最終的には手術を受けることになります。手術は成功しましたが、闘病生活の影響で体重が減少し、以前のように活躍できるか不安が残りました。ロッテは彼の体調を考慮し、契約交渉が難航。最終的に解雇されますが、アルトマンは復帰を目指して練習を続けました。

1975年に阪神タイガースに入団したアルトマンは、42歳での現役復帰を果たします。開幕戦では満塁本塁打を記録し、チームに貢献しました。しかし、視力の衰えが影響し、最終的には打率.274、12本塁打、57打点でこの年限りで現役を引退しました。

アルトマンの野球人生は、数々の記録と感動的なエピソードに彩られています。彼のプレーは、野球界における友情やチームワークの重要性を教えてくれるものでした。

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