大相撲


豊昇龍智勝のサムネイル
」を一字ずつ採り、「しょう」は、『横綱まで昇り詰めたい』という豊昇龍の意思を踏まえたもの。当初「豊青龍」を名乗る予定だったが、師匠の立浪が「もっと良い字がある。」と豊昇龍に言い「青」ではなく「昇」を豊昇龍に教えたところ、豊昇龍が気に入ったことから「豊昇龍」と名乗ることになった。…
81キロバイト (12,117 語) - 2025年3月9日 (日) 22:55

(出典 www3.nhk.or.jp)



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大相撲2日目における豊昇龍選手の活躍には、感動を覚えました。初日の悔しさを晴らすために、「今日こそは自分の相撲をとりたい」と決意して臨んだ姿勢すごく素敵です。右肘の蜂窩織炎を感じさせない力強い相撲は、観客を魅了しました。これからの展開も楽しみです。

1 征夷大将軍 ★ :2025/03/10(月) 21:02:47.60 ID:0FG/iCfg9
日刊スポーツ
https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202503100001064.html
[2025年3月10日19時41分]


<大相撲春場所>◇2日目◇10日◇エディオンアリーナ大阪

豊昇龍(25=立浪)が「横綱相撲」で初日を出した。過去5勝6敗だった相撲巧者、東前頭筆頭の若隆景と対戦。初日は小結阿炎になすすべなく突き出されたたが、力強い立ち合いからもろ差し。一気の出足で寄り切った。痛めている右肘を「蜂窩(ほうか)織炎」と明かしたが、影響なく横綱の力を示した。大の里、かど番の琴桜の両大関も快勝で荒れた初日から一転、安泰の2日目となった。

   ◇   ◇   ◇

ガチガチの初日から一変した。豊昇龍は「今日こそは自分の相撲をとりたいと思った。初日が終わったんで緊張は抜けた。昨日(初日)は何考えてたのか分からない。(硬かったか?)それはもちろんありました」と緊張からほどけた口は滑らかに言葉をつむいだ。

横綱初日は「ちょっと失敗した」と阿炎の引き技を警戒するあまり、立ち遅れて何もできずに突き出された。この日も優勝経験のある相撲巧者の若隆景。最近2連勝も5勝6敗と負け越していた難敵相手に吹っ切れたような相撲を見せた。

低い鋭い立ち合いから右をのぞかせ、圧力をかけながらもろ差し。足を止めることなく、一気に走って寄り切った。「しっかり当たることを意識してやりました。1日一番に集中して自分の相撲、良かったと思います」と言い「やっぱりちょっとホッとしたね」と本音の笑顔をのぞかせた。

前日は師匠の立浪親方(元小結旭豊)から「硬かったな」と声をかけられ「明日から集中して頑張れ」と激励された。師匠の言葉をしっかり受け止めた快勝。「今場所は何より勉強。勝ったのはうれしいけど、横綱のプレッシャーを体で感じたいと思ってやっている」と改めて強調した。

先場所千秋楽に痛めた右肘のサポーターを外し、テーピングだけで土俵に上がった。「サポーターを着けても意味なかったからね」。その上で症状を「蜂窩織炎」と明かした。重いと発熱、腫れと症状が出るが「熱も痛みも何もない。俺だけかな」とケロリ。不安材料と緊張を吹き飛ばし、横綱豊昇龍があるべき姿を取り戻した。【実藤健一】

▽2連勝で3日目は横綱豊昇龍に挑む若元春 相手の間合いでとってしまったが流れの中で左がのぞいたので。星勘定に関して思うところはない。どれだけ自分の相撲がとれるかだから。

【【安泰】大相撲2日目:豊昇龍「横綱相撲」で初日「今日こそは自分の相撲をとりたいと思った」右肘の蜂窩織炎感じさせず】の続きを読む


豊昇龍智勝のサムネイル
」を一字ずつ採り、「しょう」は、『横綱まで昇り詰めたい』という豊昇龍の意思を踏まえたもの。当初「豊青龍」を名乗る予定だったが、師匠の立浪が「もっと良い字がある。」と豊昇龍に言い「青」ではなく「昇」を豊昇龍に教えたところ、豊昇龍が気に入ったことから「豊昇龍」と名乗ることになった。…
81キロバイト (12,027 語) - 2025年3月9日 (日) 13:02

(出典 www.jiji.com)


新横綱としての初日、豊昇龍の敗戦は多くのファンに驚きをもたらしました。阿炎の強さが際立つ一戦でもありましたが、力士たちの真剣勝負にはいつもわくわくさせられます。カド番の琴桜も思わぬスタートとなりましたが、これからの番付での挽回を期待しています。大相撲は始まったばかり。今後の熱い戦いに目が離せません!

1 征夷大将軍 ★ :2025/03/09(日) 17:55:41.40 ID:YQHZWrGO9
スポニチ
https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2025/03/09/kiji/20250309s00005000247000c.html
[ 2025年3月9日 17:55 ]

大相撲春場所初日 ( 2025年3月9日 エディオンアリーナ大阪 )

 大相撲春場所は9日、エディオンアリーナ大阪で初日を迎えた。新横綱・豊昇龍(25=立浪部屋)は2連敗中の難敵、西小結・阿炎(30=錣山部屋)と激突し、初日黒星を喫した。

 絶対王者の照ノ富士と入れ替わり、初場所を制した豊昇龍は今場所、新横綱での初賜杯獲得を目指す。2日目には若隆景と対戦が組まれている。

 横綱昇進を目指す大関・大の里は東前頭筆頭・若隆景と対戦。土俵際で前へ前へと体をぶつけて切り返しで下した。

 初のカド番で臨む琴桜は西前頭筆頭・若元春に寄り切られ、苦しいスタートとなった。

 また豊昇龍の同期で、先場所12勝を挙げた新関脇・王鵬は西前頭2枚目・千代翔馬を立ち合いから勢いよく土俵際まで攻め込んだが、一瞬の隙を突かれ上手投げで敗れた。

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【懐古】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[臥牙丸(東小結)]< 20 >


臥牙丸勝のサムネイル
相撲でも2005年7月に行われた世界ジュニア相撲選手権大会で無差別級3位という成績を挙げている。その後木瀬部屋に入門し、本人の「ガガ」というニックネームに木瀬親方が好む「」「」の字を当てて、武蔵丸のように成功してほしいという意味を込めて付けられた「臥牙丸
49キロバイト (7,151 語) - 2025年2月11日 (火) 13:49
臥牙丸は、1992年のバルセロナオリンピックで柔道95kg超級の金メダリスト、ダヴィド・ハハレイシヴィリに師事し、相撲界に進出しました。2005年7月には世界ジュニア相撲選手権大会で無差別級3位に輝き、その後木瀬部屋に入門。彼のニックネーム「ガガ」は、木瀬親方が「臥」「牙」の字を当て、武蔵丸のように成功を願って付けられたものです。2005年11月場所で初土俵を踏み、2006年1月場所では序ノ口優勝を果たし、同年11月には幕下へ昇進しました。

幕下昇進後、2006年11月場所では6勝1敗の成績を挙げましたが、2007年には成績が振るわず、三段目に降格。その後、2008年1月場所で幕下に復帰し、2009年には連続して6勝1敗の成績を収め、自己最高位の東幕下3枚目に昇進しました。2009年9月場所では7戦全勝で優勝決定戦に進出し、魁聖を破って初の幕下優勝を果たしました。この結果、翌11月場所で新十両に昇進しました。

新十両となった2009年11月場所では8勝7敗と勝ち越し、2010年1月場所では12勝3敗で初の十両優勝を達成しました。続く3月場所でも勝ち越し、2010年5月場所では10勝5敗の成績を残し、7月場所で新入幕を果たしました。しかし、初の幕内での成績は5勝10敗と振るわず、9月場所では10勝5敗を挙げました。

2011年の大相撲八百長問題では、調査に名前が挙がりましたが、最終的には関与していないと認定されました。同年9月場所では初日に敗れたものの、その後10連勝を記録し、最終的には11勝4敗で初の敢闘賞を受賞しました。西前頭3枚目まで番付を上げた翌11月場所では2勝13敗と大敗しましたが、2012年1月場所では12勝3敗を記録し、再度敢闘賞を受賞しました。

2012年3月場所では東小結に昇進しましたが、体重が210kgに増加し、相撲のスタイルが変わり、結果的に6勝9敗となりました。木瀬部屋が再興されたため、臥牙丸は北の湖部屋から木瀬部屋に転籍しましたが、複雑な心境を抱えていました。5月場所では5勝10敗と大敗し、7月場所では10勝5敗を記録しましたが、9月場所では4勝11敗と振るわず、2013年9月場所では6勝9敗の成績を残しました。

2014年には体重が減少し、糖尿病の治療を開始しました。2015年5月場所では前頭6枚目で横綱の日馬富士に勝利し、初金星を獲得しました。この場所ではねましたが、2015年7月場所から2016年5月場所までは負け越しが続き、再入幕を果たしました。

2017年には再び十両降格となり、2018年には関取の地位を失いました。母親の死去が影響し、一時は引退を考えましたが、師匠の励ましで現役を続けました。2019年には十両復帰を果たしましたが、怪我に苦しみ、最終的には引退を決意しました。

引退後、臥牙丸は相撲界に残らず新たな仕事をする意向を示しました。2021年には解説を務め、体重を減らし健康的な生活を送るようになりました。2022年には断髪式を行い、結婚を発表しました。

## 取り口

臥牙丸は200kgを超える巨体を生かした突き押しが最大の武器で、立合いの出足が鋭く、相手を一気に押し出すことができました。しかし、体型のバランスが悪く、引きや叩きに弱い一面もありました。2014年以降は立合いの出足が鈍くなり、体重の増加が影響を及ぼしましたが、相撲を取る際には左を差して巨腹を活かすこともありました。彼の取り口は、体重を活かしきれない部分もありましたが、時には力強い勝利を収めることもありました。

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【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[徳瀬川(西前頭筆頭)]< 19 >


徳瀬川は13歳からモンゴル相撲を始め、18歳でモンゴルジュニア級4位の成績を残す。遠縁のモンゴル相撲関脇と旭鷲山のつてで大学を中退し来日。摂津倉庫相撲部で1ヶ月稽古後、桐山部屋に入門。2003年7月場所で初土俵を踏み、2006年11月場所で三段目優勝を果たす。

2007年1月場所では関取昇進を狙える位置に上がるが、その後は幕下上位で一進一退が続く。2009年5月場所では7戦全勝で幕下優勝し、翌7月場所で新十両昇進を果たす。新十両で迎えた2009年7月場所では8勝7敗と勝ち越し、2010年3月場所で新入幕を果たす。

2011年1月場所限りで桐山部屋が閉鎖され、朝日山部屋に移籍。しかし、同年4月1日に大相撲八百長問題に関する引退勧告を受け、「証拠もないのにどうなんですかね」とコメント。4月5日に引退届を提出し受理された。モンゴルに帰国後、家族が中傷されていたため、同じく引退した力士たちと釈明会見を行った。

奇しくも引退時には西前頭筆頭と自己最高位に番付を上げていたが、移籍後は一度も土俵に上がることなく角界を去った。現在はウランバートル市の警備会社でガードマンとして勤務している。

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【相撲】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[若ノ鵬(西前頭筆頭)]< 18 >


若ノ冒険は北オセチア共和国出身で、露鵬の兄弟であり、父親からレスリングを学び、ジュニア王者となった。2004年に来日し、大嶽部屋に入門。2005年3月場所で初土俵を踏み、同期には髙安や大道がいる。2005年9月場所では序二段優勝を果たし、2006年1月場所では幕下で6勝1敗の成績を収め、優勝決定戦に進出するも把瑠都に敗れる。その後も順調に勝ち越しを続け、11月場所で十両昇進を果たす。

十両昇進は18歳5カ月で、外国出身力士としては最年少記録だったが、本人は「17歳で上がりたかった」と悔しがった。関取として初めて土俵に上がった2007年1月場所では苦戦し、5勝
10敗の成績で初の負け越しを経験。翌3月場所では再十両を果たし、2007年9月場所で十両筆頭として10勝5敗を記録し、11月場所で新入幕を果たす。

新入幕後の会見では、師匠の間垣が脳出血の後遺症で不自由な体を押して出席し、若ノ鵬は「親方を喜ばせたい」と語った。相撲の型が未熟で、立合いの変化が多く、メディアでネタにされることもあったが、2008年1月場所では岩木山に変化を読まれ敗れたことを機に「もうやらない」と決意。

2008年5月場所では、鶴竜戦で勝利し、8勝7敗で勝ち越し。7月場所では入幕後初の負け越しを経験するが、8月に大麻所持で検挙され、相撲協会から解雇される。解雇後、若ノ鵬は処分撤回を求める訴訟を起こすが、仮処分申請は却下され、1月29日に退職金が支払われた。2009年2月1日に断髪式を行ったが、角界関係者は誰も参加せず、その後ロシアに帰国した。若ノ鵬の相撲人生は、才能を持ちながらもトラブルに見舞われた波乱の道のりだった。

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