大相撲


【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[黒海(西小結]<23>


黒海はレスリングチャンピオンの息子としてソビエト連邦アブハジア自治共和国のスフミで生まれた人物は、6歳からレスリングを始め、12歳の時にアブハジア紛争で家が破壊され、トビリシに逃れました。グルジアのスポーツナショナル・アカデミー在籍中に欧州ジュニア選手権大会のフリースタイル130kg超級で優勝し、相撲にも興味を持ち、ドイツで行われた世界アマチュア相撲選手権大会に参加しました。その大会で日本の指導者と出会い、来日しました。

2001年5月に初土俵を踏み、順調に出世を遂げました。2004年1月場所では幕内に昇進し、その後も活躍を続けました。2005年7月場所と2006年1月場所では横綱朝青龍を撃破し、金星を獲得しました。しかし、父の訃報や怪我の影響で成績が低迷することもありました。

2011年1月場所では幕内連続在位が途絶え、その後も成績が振るわず、負傷が続きました。2012年1月場所からは精彩を欠く相撲が続き、5月場所で現役初の休場となりました。同年9月場所では負傷のため途中休場し、引退を決意しました。

引退後は祖国で日本食レストランを経営し、アマチュア相撲の指導を行っています。2013年2月2日に断髪式が行われ、ジョージア相撲連盟会長も務めています。

【【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[黒海(西小結]<23>】の続きを読む


【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[露鵬(東小結)]< 22 >


露鵬はロシア出身の元大相撲力士で、父親はレスリングの指導者として活動していた。彼は16歳からレスリングを始め、18歳のときに世界ジュニア選手権でフリースタイルの部門で優勝したが、国際レスリング連盟(FILA)のデータベースにはその記録が存在しない。体重が増加したため、レスリングを断念し、20歳から相撲に転向。2001年の世界相撲選手権大会で重量級の部門で3位、欧州選手権では優勝を果たした。

2002年2月、父親の知人を通じて大鵬(第48代横綱)に紹介され、日本に来ることになった。弟は元大相撲力士の白露山で、彼は北の湖部屋に入門する予定だったが、外国人力士は一部屋に一人しか入れない規則があったため、露鵬は3ヶ月間北の湖部屋で過ごした後、大鵬部屋に移籍した。彼の四股名「露鵬」は、元横綱大鵬の名前とロシアの「露」を組み合わせたものである。

初土俵を踏んだ2002年5月場所では19連勝を記録し、順調に出世を果たした。2004年1月場所で十両に昇進し、同年9月場所から新入幕を果たす。新入幕の場所では東前頭15枚目で10勝5敗の成績を残し、敢闘賞を受賞。2005年3月場所では11勝、11月場所でも10勝を挙げるなど安定した成績を収めたが、2005年5月場所では7勝8敗で負け越し、三役昇進を逃した。さらに、同年7月場所では怪我の影響もあり、3勝8敗4休に終わった。

その後、2006年1月場所では9勝6敗を記録し、東小結に昇進。ロシア出身の力士として初の三役となったが、同年3月場所では4勝11敗と苦戦した。2006年7月場所では千代大海との睨み合いから口論に発展し、支度部屋の風呂場のガラスを割る事件を起こし、協会から厳重注意を受けた。さらに、カメラマン2人に暴行を加え、3日間の出場停止処分を受けた。

2008年9月2日、日本相撲協会は露鵬と白露山兄弟から大麻の陽性反応が検出されたと発表。これにより、兄弟は警視庁から事情聴取を受けたが、露鵬は大麻の所持や使用を否認した。家宅捜索でも証拠は見つからなかったが、精密検査で陽性反応が出たため、協会は9月8日に理事会で解雇を決定。露鵬はこの処分に対し、白露山とともに訴訟を起こしたが敗訴した。

角界を追放された後、露鵬はロシアに帰国し、2021年には北オセチア相撲連盟の会長に就任した。取り口は右四つからの寄りや豪快な上手投げが得意で、レスリングの影響を受けたスタイルが特徴だった。

露鵬は相撲界での礼儀を欠いた行動や暴力事件が多く、特に大麻問題が彼のキャリアに大きな影響を与えた。彼の問題行動は相撲界においても注目され、特に大麻所持の問題は大きなスキャンダルとなった。解雇後も、彼の行動は相撲界における外国人力士への印象に影響を与え、後の外国人力士の受け入れに対する懸念を生む要因となった。

【【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[露鵬(東小結)]< 22 >】の続きを読む


【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[時天空(東小結)]< 21 >


時天空は、モンゴル出身の大相撲力士であり、37歳で早世した。彼はモンゴル相撲の小結(ナチン)格の父を持ち、ウランバートルで生まれ育った。若い頃は柔道を学び、後に東京農業大学に進学。そこで相撲部に入部し、全国学生相撲個人体重別選手権大会で優勝した。角界入りを決意し、時津風部屋に入門。入門後は夜間主コースに転籍し、2004年に大学を卒業した。

彼は2002年に初土俵を踏み、同期の中で最も早く出世。序ノ口から22連勝を記録し、2004年には十両に昇進。2005年には新入幕を果たし、以降も順調に勝ち星を重ねた。特に突っ張りを武器にし、技能賞を受賞するなど活躍したが、横綱戦では苦戦し、最終的に1勝24敗という成績に終わった。

三役に昇進後、初日には横綱・朝青龍に勝利するなど注目を集めたが、勝ち越しは難しく、2009年には久々に勝ち越しを決めたものの、2010年には怪我で休場。2012年には再び上位に戻るも、成績は安定せず、2014年には十両に陥落した。

2015年には右肋骨骨折と診断され、実際には悪性リンパ腫が原因であった。抗がん剤治療を受けながら復帰を目指したが、最終的には現役引退を決断。2016年には年寄として後進の育成に努めたが、病状が悪化し、2017年に死去した。彼はモンゴル出身力士として初の物故者となり、相撲界に大きな影響を与えた。

【【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[時天空(東小結)]< 21 >】の続きを読む


【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[臥牙丸(西東小結)]< 20>


臥牙丸は、1992年のバルセロナオリンピックで金メダルを獲得したダヴィド・ハハレイシヴィリに師事し、相撲界に進む。2005年に木瀬部屋に入門し、「臥牙丸」という四股名を名乗る。初土俵は2005年11月で、2006年には序ノ口優勝を果たし、同年11月には幕下に昇進。しかし、その後は成績が不安定で、三段目に降格することもあった。

2008年には再び幕下で好成績を収め、2009年には新十両に昇進。2010年には十両優勝を果たし、2010年7月には新入幕を達成する。2011年には八百長問題に関与したとの疑惑があったが、後に無実が証明される。2011年9月場所では11勝4敗の成績を収め、初の敢闘賞を受賞した。

その後、体重が増加し、相撲のスタイルに影響を及ぼす。2012年には東小結に昇進するも、成績が振るわず、部屋の移籍や体重管理に苦労する。2014年には一時的に引退を考えるが、師匠の励ましで現役を続行。2015年には初金星を獲得し、好成績を収めるも、体重管理の問題が続く。

2019年には膝の怪我が悪化し、引退を決意。引退後は健康管理に努め、体重を大幅に減少させる。弟弟子の指導や相撲振興活動に従事年には断髪式を行い、結婚を発表した。引退後も相撲界に貢献し続ける意向を示している。

【【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[臥牙丸(西東小結)]< 20>】の続きを読む


【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[南海龍(西前頭2枚目)]< 16 >

南海龍は西サモアの首都アピア市で生まれ、19歳の時に力士の公募に応募し、高砂部屋に入門。四股名は「南海龍」と名付けられ、1984年に初土俵を踏む。1987年には十両に昇進し、史上初の西サモア出身関取となる。筋肉質な体と力強い相撲で「サモアの怪人」と呼ばれ、期待を集めた。

しかし、彼は大酒飲みとしても知られ、稽古をあまりせず、飲酒トラブルを頻繁に起こしていた。泥酔状態でタクシーの運転手に絡んだり、ホテルのボーイを殴ったりと、問題行動が絶えなかった。兄弟子の小錦は彼の面倒を見ており、酒のトラブルを解決するために奔走していたが、南海龍の飲酒癖は改善されなかった。

1988年には酒の飲み過ぎで休場し、その理由が二日酔いであることが明らかになると、無断休場扱いとなった。師匠から「酒と相撲、どっちを取るんだ」と問われた南海龍は「酒は絶対にやめられない」と答え、そのまま故郷の西サモアに帰国。帰国時には髷をほどき、アロハシャツにジーンズ姿で「相撲道は僕に合わない。ロサンゼルスで音楽の勉強をしたい」と言い残した。

その後、南海龍は廃業届が受理され、番付には名前が残ったものの、出場はできなくなった。師匠の5代高砂はその後、急死してしまう。

廃業から2年後の1990年に再来日し、新日本プロレスの藤波辰爾が結成したドラゴンボンバーズに参加。しかし、入団前に「酒は一滴も飲まない」と誓約書を書いたにもかかわらず、デビュー戦の1週間前に泥酔状態でバイクを運転し、他人の車に投げ付ける事件を起こしてしまう。この問題が原因で新日本プロレスを解雇され、プロレスデビューすることなく帰国することになった。南海龍の相撲人生は、飲酒が唯一の障害となり、彼の才能を活かすことができなかった。

【【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[南海龍(西前頭2枚目)]< 16 >】の続きを読む

このページのトップヘ