大相撲


【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[旭秀鵬(東前頭4枚目)]< 10 >


旭秀鵬関は、モンゴルのウランバートルで育ちました。父は運送会社の元社長、母は元教師で、3人兄弟の一員です。姉は軍の病院医師、兄は日本の防衛大学に留学し、現在は大統領警護官を務めています。モンゴルでは6月から8月末までの3ヶ月間が夏休みで、多くの子供たちが田舎に行って過ごします。旭秀鵬関も家族と共に親戚の家に行き、自然の中で馬に乗ったり、星空を楽しんだりした思い出があります。

幼少期には何度も落馬を経験しましたが、馬に乗るためにすぐに起き上がる根性を見せました。2016年の夏巡業では、現代のウランバートルの街に驚き、田舎での生活が減少していることを語っています。父はエルデネバートルに軍人以外の職業を希望しており、旭秀鵬関はバスケットボールにも取り組んでいました。

2004年、モンゴルから岐阜県本巣市の岐阜第一高等学校に柔道留学し、未経験ながらも2年目には県大会で優勝しました。しかし、決勝戦で顔面骨折を経験し、全国大会への出場を断念しました。高校在学中、兄と旭天鵬と知り合い、旭秀鵬関は相撲界入りを希望するようになりました。大島部屋が外国人枠を空けていたため、旭天鵬の勧めで入門を果たしました。

2007年5月場所で初土俵を踏み、序ノ口を1場所で通過。11月場所では序二段優勝を果たしました。2011年には幕下で勝ち越し、9月場所で十両に昇進。2012年1月場所では新入幕を迎えましたが、連敗が続き、友綱部屋に所属を変えました。2012年7月場所では休場し、翌9月場所で幕下に陥落しましたが、すぐに復帰しました。


2013年には十両優勝を果たし、再入幕を果たしましたが、怪我に悩まされることも多く、2014年には再入幕を果たしましたが、右膝を痛めてしまいました。2016年には再び幕内に復帰しましたが、怪我の影響で苦しむことが続きました。

2018年には春巡業から休場し、12月にはモンゴル出身の女性と結婚しました。2021年には新型コロナウイルスの影響で全休し、2022年には引退を発表しました。引退会見では怪我の影響を説明し、思い出の場所として新十両を決めた2011年7月場所と十両優勝を果たした2013年3月場所を挙げました。

旭秀鵬関はの寄りが得意で、突っ張りもこなせるオールラウンダーです。上手からでも下手からでも投げが決まり、引き技も持っていますが、型がないことが弱点として指摘されています。膝の怪我も影響し、負ける相撲はあっさりしたものが多いとされています。

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【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[春日王(西前頭3枚目)]< 11 >


金成澤(春日王)は、3歳の時に父を亡くし、母と共に裕福ではない生活を送りました。母は大学の清掃員として働きながら、金成澤を含む3人の子供を育てました。富平初等学校でテコンドーを始めた後、4年生の時にシルムに転向。富平中学校、富平高等学校、仁荷大学校経済学部に進学し、シルムに専念しました。大学3年生の時には大統領旗統一壮士大会無差別級で優勝し、その名を広めました。

1998年、春日山部屋に入門し、初土俵を踏みました。言葉や習慣の違いに苦労しながらも、稽古熱心で素直に指導を受ける努力家でした。入門の動機について、金成澤は「韓国でシルムをやっても年俸は少なく、選手生活が短いことに不安を感じ、相撲で稼ぐことに決めた」と語っています。

順調に出世し、2000年1月に幕下昇進。2002年7月には十両に昇進し、初の韓国出身関取となりました。十両3場所目の2002年11月場所では十両優勝を果たし、翌年の新入幕では10勝5敗の好成績を挙げ、敢闘賞を受賞しました。

2003年には「大相撲韓国公演」が計画されましたが、SARS流行により延期となりました。2004年に開催された公演では、特別に参加を許可され、地元の学校を訪問し、相撲を広める活動を行いました。

2008年膝を痛め、十両に陥落。その後、再び幕内に復帰するも、膝の状態が万全ではなく、成績が振るわず再度十両に降格しました。2011年1月には十両優勝を果たし、再入幕が期待されましたが、同年4月に大相撲八百長問題で引退勧告を受け、引退届を提出しました。断髪式は2011年5月28日に両国国技館で行われ、俳優や格闘家など多くの人々が参加しました。

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【感動】徳勝龍の引退相撲での感動的な断髪式とかなでの心温まるエール


大相撲で2020年初場所に幕尻優勝を果たし、2023年9月に引退した元幕内徳勝龍(38)=現千田川親方、木瀬、本名・青木誠=の引退相撲が1日、東京・両国国技館で行われました。

断髪式では、女子お笑いトリオ・3時のヒロインのかなでさんがはさみを入れました。かなでさんは徳勝龍の優勝後、関取と顔が似ているとバラエティ番組などで話題になっていましたね。徳勝龍も「僕の妹です」とエールを送るなど、微笑ましい関係が印象的でした。

この日が2回目の対面で、かなでさんにとっては大相撲の断髪式ではさみを入れること、両国国技館への来場も初めてだったそうです。「お会いしたのは一度だけですが、呼んでもらえて光栄です。緊張しました」と語っていたのがとても可愛らしかったです。

親方として新たな道に進む“兄”に向けて、かなでさんは「今までもこれからも妹です。お疲れ様でした」と、心温まるねぎらいの言葉をかけていました。徳勝龍の新たなスタートを応援したいですね!

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【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[阿夢露(東前頭5枚目)]< 9 >


阿夢露は、相撲経験が全くない状態からスタートしました。学生時代はボクシングに打ち込み、ロシアに住んでいた頃はシベリア鉄道の運転士を目指していました。高校卒業後、姉の夫である日本人の義兄に相撲を勧められ、船で2日間かけてロシアから来日しました。相撲についてはあまり知らなかったものの、相撲部屋の稽古を見て力士たちの努力とパワーに感銘を受けました。

18歳の時、同じロシア出身のボラーゾフ兄弟(露鵬・白露山)と共に阿武松部屋に入門し、2002年5月場所で初土俵を踏みました。四股名は故郷のアムール川に由来し、作詞家の中山大三郎によって名付けられました。三段目までは順調に番付を上げkg台の細身の体型のため、幕下と三段目を往復する生活が続きました。

2008年以降は体重が増え始め、幕下に定着。2010年7月場所には自己最高位の東幕下8枚目まで上がりましたが、左膝の重傷により途中休場を余儀なくされましたリを経て、2011年5月の技量審査場所で6勝1敗の好成績を挙げ、翌7月場所で三段目優勝を果たし、再び東幕下8枚目に戻りました。

2012年1月場所では新十両に昇進し、初土俵から57場所目の昇進は外国出身力士としてはスロー記録でした。しかし、同年の1月場所では右膝を負傷し、手術を受けることになりました。その後、怪我の影響で数場所を全休し、番付を下げましたが、2013年1月場所で7戦全勝の成績を挙げ、序二段優勝を果たしました。

その後も順調に勝ち進み、2014年には再び十両に復帰。2014年9月場所では新入幕を果たし、初土俵から74場所目という遅い記録でした。しかし、幕内では苦しみ、最終的には5勝10敗に終わりました。2016年には怪我で途中休場となり、関取の地位を失いました。

2018年5月14日、両国国技館で引退を表明し、同年6月16日に断髪式を行いました。引退後は日本に留まり、スポーツトレーナーを目指すことを決意。千葉県内のジムでトレーナーとして活動し、相撲の要素を生かしたトレーニングを提供しました。

2021年には日本相撲振興財団のメンバーとして活動を開始し、2023年4月にはトレーナーを退職し、自動車部品の管理担当者として新たな道を歩むことを発表しました。2024年10月には日本でロシア人女性と結婚をスタートさせる予定です。

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横綱推挙授与式は、豊昇龍にとって新たなスタートを切る重要なイベントでした。特に、叔父の朝青龍が見守る中での奉納土俵入りは、彼の力強さと高いリーダーシップの象徴とも言えます。この素晴らしい伝統が次世代に受け継がれていくことを願っています。今後の彼のパフォーマンスに期待せざるを得ません。

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