大相撲


【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[戦闘竜(西前頭12枚目)]< 4 >


父は横田基地に所属した米軍のコンピューター技術師で、母は日本人。東京都立川市に生まれ、6歳まで日本(横田基地)で暮らしていた。1975年にアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスに転居し、そこで育った。

1987年に高校を卒業した後、親戚に勧誘されて再び来日し、大相撲の友綱部屋に入門。四股名はセントルイスにちなんで「戦闘竜(せんとりゅう)」と名付けられた。1988年7月場所で初土俵を踏み、1994年11月場所ではアメリカ合衆国本土出身力士、および黒人力士として初の十両昇進を果たした。立川市出身者としても史上初の快挙となった。


その後は怪我に悩まされながらも、2000年7月場所に新入幕を果たすまでに12年を要した。高校卒業まで続けたアメリカンフットボールやレスリングで培った爆発力を活かし、強烈な突きや押しを得意としていたが、引き技などの変化についていけない場面が目立ち、怪我にも泣かされて幕内に定着できなかった。2003年11月場所で幕下で負け越したのを最後に、現役を引退した。

引退後の2004年、彼はプロ格闘家に転向。2月15日、PRIDE 武士道 -其の弐-のリングに上がり戦を発表した。4月25日には、総合格闘技デビュー戦となったPRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のヘビー級グランプリ1回戦でジャイアント・シルバと対戦し、チキンウィングアームロックで一本負けを喫した。


その後、10月14日にはPRIDE 武士道 -其の伍-でマル・"ザ・ツイン・タイガー"と対戦し、KO勝ちを収めて転向後初勝利を挙げた。試合前には「曙よりも先に勝つ」と語っていたが、それを実現し、試合後には「相撲は強いんだよ!」とマイクアピールした。

12月31日にはPRIDE 男祭り 2004で元柔道シドニーオリンピック金メダリストの瀧本誠と対戦し、判定負け。2007年3月23日にはHEAT初参戦となったHEAT 3でキム・ジフンと対戦し、TKO勝ちを収めた。

8月5日にはK-1初参戦となったK-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONGのASIA GPに出場し、1回戦で金泰泳と対戦して右ハイキックでKO負け。2008年12月14日にはHEAT総合ルールヘビー級トーナメントに参戦し、1回戦で濱田順平と対戦してKO勝ちを収めた。

2009年3月28日にはHEAT9のトーナメント準決勝で野地竜太と対戦し、KO勝ち。7月18日にはHEAT10のトーナメント決勝でクリスチアーノ上西と対戦するも、ローブローを受け続行不可能となりノーコンテストとなった。9月26日にはHEAT11で上西との再々戦を行い、延長ラウンドでTKO負けHEATヘビー級王座を逃した。

2010年3月7日にはSRC初参戦となったSRC12で中尾"KISS"芳広と対戦し、パウンドでTKO負け。2013年8月25日には引退試合となったDEEP 63 IMPACTで中村和裕と対戦し、パンチラッシュでKO負けを喫した。

引退後は元妻の実家の家業でタイ工場で働いていたが、2018年に退職。現在は再婚し、タイに本社を構える食品製造会社の日本営業部として大きな成果を上げている。

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【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[猛虎浪(東前頭6枚目)]< 8 >


猛虎浪はウランバートル市内で翔天狼と同じ団地に住んでいましたが、当時は面識がありませんでした。学生時代はバスケットボールに熱中し、モンゴル相撲はほとんど遊び程度でした。しかし、モンゴルの英雄・旭鷲山の取り組みを見て力士になりたいと考え、旭鷲山紹介されて来日を決意しました。2000年に来日し、立浪部屋に入門。入門前には白鵬らと共に実業団で稽古を積み、2001年3月場所で初土俵を踏みました。

四股名は、大阪場所で初土俵を踏んだことに由来し、阪神タイガースの山田勝彦元捕手との親交から名付けられました。モンゴル語の「猛虎」と立浪部屋の「浪」を組み合わせた名前ですが、モンゴルでは「蒙古」が蔑称とされているため、使用を避ける運動もあります。


体重が増えず三段目下位で苦労しましたが、徐々に成績が向上し、2005年には幕下に定着。2006年1月には十両に昇進しました。新十両となった1月場所では阪神タイガースのロゴに似た化粧まわしを着用し、球団から特別許可を得る騒動もありました。その場所では11勝4敗の好成績を収めましたが、翌場所では負け越し、十両の座から陥落しました。

2007年には再十両を果たし、2009年5月場所で新入幕を果たしました。2009年12月には日本国籍を取得し、モンゴル出身力士としては旭天鵬に次ぐ帰化となりました。


2011年の八百長問題では、関与を認められ引退勧告を受け、4月に引退届を提出しました。この引退により、モンゴルに住む家族が中傷される事態となりました。引退後は総合格闘技に転向する意向を示し、断髪式を終えた後、プロレスデビューを果たす予定でしたが、リングデビューは果たせませんでした。その後、起業し、モンゴルと日本を行き来しながら活動しています。

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横綱豊昇龍の誕生を心から祝福します。彼の力強い相撲は観る者を魅了しますし、連続優勝の快挙も素晴らしい!これからの相撲界を引っ張っていく存在として、ますます注目していきたいですね。

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【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[大和剛(西前頭12枚目)]< 3 >


元横綱の曙とは幼馴染で、幼稚園から高校まで同じ環境で育った。高校卒業後、アメリカ本土の運送会社に就職したが、曙の活躍に刺激を受けて大相撲を志すことに決めた。約2年後、会社を辞めてハワイに戻り、ハワイ在住の間垣部屋関係者に紹介され、そのまま入門。1990年11月場所に初土俵を踏んだ。

彼は190cm近い身長を活かした突き押し相撲で着実に番付を上げていった。初土俵から約4年後の1995年3月場所には十両に昇進。しかし、十両での苦労を経て、1997年1月場所には新入幕を果たした。立合いがやや遅かったものの、突き押し相撲に磨きをかけ、幕内に定着することができた。


しかし、1998年3月場所前にウイルス性の風邪を患い入院。全休を余儀なくされ、その場所を最後に十両に陥落。翌5月場所も稽古がままならず、本来の相撲が取れずに1勝14敗と大敗を喫し、7月場所には幕下まで陥落。その場所を全休し、翌11月場所に東幕下49枚目で勝ち越したのを最後に現役を引退した。

引退後は故郷には帰らず、日本に定住。一時は都内でハワイ料理店を経営していたが、2024年1月21日に54歳で死去した。

実弟は同じ間垣部屋に所属した若力徹で、最高位は東幕下26枚目(1993年5月場所)。幼馴染の曙とは「チャド(曙の本名)」・「ジョージ」と呼び合うほどの仲で、上下関係の厳しい相撲界に入ってからもその関係は変わらなかった。

通算成績は251勝198敗24休、勝率は.559。幕内成績は42勝48敗15休、勝率は.467。現役在位は48場所、幕内在位は7場所。各段優勝は序ノ口優勝1回(1991年1月場所)を記録している。

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【画像】歴代の幕内外国人力士を番付順に紹介する[隆の山(西前頭12枚目)]< 2 >

パヴェル・ボヤル(元・隆の山)は、1983年2月21日にチェコスロバキア(現在のチェコ共和国)のプラハで生まれました。彼は3歳の時に父を亡くし、母子家庭で育ちましたが、7歳から始めた柔道の才能を認められ、プラハ市内の国立スポーツギムナジウムに進学して柔道を学びました。柔道を学相撲にも興味を持ち、プラハ市内の相撲クラブに通うようになります。

2000年には両国国技館で開催された世界ジュニア相撲選手権大会で軽量級3位に入賞。この大会に出場するために本格的に相撲の稽古を始めたのは大会の2ヶ月前だったそうです。この活躍を受けて、チェコの相撲協会から「プロを目指してみないか」と声がかかり、彼は「言葉も分からない国だけど、関取を目指して挑戦してみたい」と決心しました。13代鳴戸親方の考えに触れたことも影響し、彼は鳴戸部屋に入門し、2001年11月場所に初土俵を踏みました。

入門時の同期には後の横綱・鶴竜がいて、相撲教習所時代には一緒にランニングをするなど、仲良く稽古に励んでいました。しかし、初土俵から5年経っても体重は88kgから91kgにしか増えず、脂肪が付きにくい体質のため、筋肉質な体型を維持していました。師匠の鳴戸親方は、彼の体重増加に苦心し、餅やジャガイモを食べさせるなどの工夫をしましたが、なかなか効果が出なかったようです。

2003年3月場所には幕下に昇進しますが、その後はなかなか番付を上げられず、幕下と三段目を行ったり来たりしていました。しかし、2008年7月場所に5勝2敗の成績を残してからは幕下に定着し、2011年5月には新十両昇進が決定しました。

新十両となった2011年7月場所では、10勝5敗の成績を収め、注目を集めましたが、9月場所では5勝10敗に終わり、十両陥落。その後、体重増加のためにインスリンを使用していたことが報じられましたが、日本相撲協会は処分を行わない方針を示しました。

その後も幕内下位と十両上位を行き来する状況が続きましたが、2013年には14場所務めた関取の座から陥落。再び十両に戻るも、2014年には再び幕下に陥落し、最終的には2014年7月場所で左腕を故障し、引退を発表しました。引退会見では、師匠の鳴戸親方への感謝の気持ちを述べ、思い出の取組として天鎧鵬との対戦を挙げました。

引退後は日本国籍を取得していないため、日本相撲協会には残らず、母国チェコに帰国して日本語を活かした職業に就くことを希望しています。彼の取り口は軽量でありながら真っ向勝負のスタイルが特徴で、機動力を活かした相撲を展開していましたが、体重の壁に苦しむことも多かったようです。引退時には体重が95kgを切るなど、体力の衰えが見られました。

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