大相撲


【画像】歴代の幕内外国力士を番付順に紹介する[青狼(西前頭14枚目)]< 1 >

青狼(せいろう)は、モンゴル出身の大相撲力士で、彼の来歴は非常に興味深いものです。彼の父親はモンゴル相撲の元関脇で、横綱・朝青龍の父親と友人でした。青狼は中学生の頃まではモンゴル相撲の経験がほとんどなく、ナーダムの時期に稽古をする程度でしたが、朝青龍が横綱に昇進する姿を見て相撲に興味を持ちました。

14歳の時、約1000人が参加する日本の相撲オーディションに優勝し、相撲留学のために来日する予定でしたが、バスケットボール中の怪我でその計画は流れてしまいます。しかし、2年後に朝青龍からの電話で来日が決まりました。2005年4月には朝青龍宅に滞在し、高砂部屋の稽古に参加。その後、錣山部屋に入門し、青狼という四股名を名乗ることになります。

初土俵を踏んだ2005年7月からは、体重が100kg未満の軽量であったため、序二段通過に10場所もかかりました。しかし、師匠や兄弟子の支えを受けながら成長し、2008年3月には幕下昇進を果たします。その後、網膜剥離の手術を経て、2009年5月には三段目優勝を達成。2010年以降は幕下に定着し、2013年には関取昇進を果たしました。

新十両となった2013年7月場所では9勝6敗の成績を収め、その後も自己最高位を更新し続けましたが、2014年には十両尻の地位に置かれ、苦戦を強いられました。2015年7月には新入幕を果たし、モンゴル出身力士として23人目の幕内力士となります。

しかし、2016年以降は幕内での成績が振るわず、何度か幕下に陥落する危機を迎えました。2018年には結婚披露宴を行い、師匠や横綱たちが出席しましたが、その後の場所では怪我に悩まされ、ついには2019年に引退を決意します。引退後はモンゴルに帰国し、実業家として活動を始めました。


青狼の取り口は基本的に右四つが得意で、左前ミツを引いて攻めるスタイルも見せますが、立合いが甘いという弱点も抱えていました。入門当初は型が定まらず、雑な相撲が多かったものの、経験を積むことで突き押しを副次的な手段として用いるようになりました。彼の相撲人生は、努力と成長の物語であり、モンゴル出身力士としての誇りを持ちながら、相撲界での道を切り開いていったことが伺えます。

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逆鉾は、父・鶴ヶ嶺が居宅兼相撲部屋を構えた墨田区で生まれ育ちましたが、大相撲入り後は父の出身地である鹿児島県を自身の出身地として届け出ました。墨田区立二葉小学校、両国中学校を卒業後、相撲に興味を持つようになり、目黒高校に進学。高校では相撲部に所属し、活躍を見せると、兄の反対を押し切って井筒部屋に入門し、1978年に初土俵を踏みました。

1981年には兄と同時に新十両となり、同年11月場所で幕下に陥落したものの、1982年には再十両、そして同年11月には入幕を果たしました。逆鉾は父譲りの「相撲巧者」として知られ、立合いから相手のもろ差しに潜り込むのが得意でした。1984年には小結を飛び越えて関脇に昇進し、9場所連続でその地位を維持しましたが、出世欲が乏しく、勝ち越しても2桁勝利を挙げることはありませんでした。

1987年には千代の富士や双羽黒を破り、3場所連続で殊勲賞を獲得しましたが、若貴兄弟の台頭と共に力が衰え、1992年9月場所で引退するまで人気力士として活躍しました。引退後は年寄・14代春日山を襲名し、井筒部屋を継承。直弟子の鶴竜を横綱に育て上げるなど、師匠としての手腕を発揮しました。

相撲協会では役員会の会長を務め、2014年には副理事に就任。2016年には審判長として土俵下に座る意向を示しましたが、同年3月場所での事故により左足を骨折し、入院を余儀なくされました。2019年には膵臓がんが発覚し、同年9月に58歳で死去しました。

逆鉾の死去に際しては、多くの相撲関係者が弔問に訪れ、彼の功績を称えました。井筒部屋は彼の死去に伴い師匠不在となり、鶴竜は陸奥部屋に転籍することが決まりました。逆鉾の実娘である天咲千華が志摩ノ海航洋と結婚し、井筒部屋の再興が期待される中、今後の動向が注目されています。寺尾は相撲界に多大な影響を与えた力士として、今も多くの人々に記憶されています。

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貴闘力忠茂(たかとうりき ただしげ、1967年9月28日生まれ)は、元大相撲力士であり、プロレスラーとしても活動した。兵庫県神戸市出身で、入門時は福岡県福岡市博多区に住んでいた。彼は二子山部屋に所属し、最高位は東関脇である。本名は鎌苅忠茂(かまかり ただしげ)で、四股名は「貴闘力」と名付けられた。身長180cm、体重152kgで、得意技は突き、押し、張り手、いなし、引き、叩きなど多岐にわたる。

1983年3月場所で初土俵を踏み、1989年に新十両昇進を果たした。1990年9月場所で入幕し、11勝4敗の成績を残して敢闘賞を受賞。その後、1991年5月場所で小結に昇進し、以降は三役から幕内上位に定着。特に1993年には、初日から8連勝し、11勝を挙げて技能賞を獲得した。

2000年3月場所では、幕尻からの優勝を果たし、史上初の幕尻による幕内最高優勝を達成した。この時、彼は千秋楽で関脇・雅山を送り倒し、13勝2敗の成績で優勝を決めた。彼の優勝は、32歳5ヶ月でのもので、初土俵から102場所目での達成は当時の記録であった。優勝が決まった瞬間、彼は感極まり涙を流し、義父である大鵬もその功績を称えた。

引退後は年寄・大嶽を襲名し、相撲界での活動を続けた。さらに、焼肉店「焼肉ドラゴ」を経営し、YouTuberとしても成功を収めている。彼のYouTubeチャンネルは多くの登録者を持ち、様々なコンテンツを提供している。1993年に第48代横綱・大鵬の三女と結婚し、子供たちも相撲界で活躍している。趣味はパチンコや競馬で、過去にはギャンブルに関するトラブルも経験したが、現在は実業家としての道を歩んでいる。貴闘力は、相撲界での功績とその後の活動を通じて、多くのファンに愛され続けている。

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寺尾は、墨田区で生まれ育ち、父・鶴ヶ嶺が住居兼相撲部屋を構えていたが、大相撲入り後は父の出身地である鹿児島県を自身の出身地として届け出ました。幼少期から大鵬を倒す力士になりたいと夢見ていた寺尾は、厳格な父の影響で敬語を使うなど、しつけを受けて育ちました。母の死後、相撲取りになる決意を固め、1979年に井筒部屋に入門し、初土俵を踏みました。

初土俵時の体重は85kgでしたが、100kgまで増やすために厳しい食事管理を行い、1984年には新十両に昇進。1985年には十両優勝を果たし、翌場所で新入幕を果たしました。入幕時には「名脇役になれればいい」と謙虚な姿勢を見せていましたが、次第に実力を発揮し、1987年には名を常史と改名しました。

寺尾は、兄弟の中で特に注目され、1989年には関脇に昇進。大乃国や千代の富士から金星を獲得し、数々の賞を受賞しました。1991年には貴花田との対戦が注目され、以降は「打倒!貴花田」を目標に掲げました。1995年には貴乃花から初の金星を獲得し、活躍を続けました。

しかし、1997年には怪我により連続出場記録が途切れ、その後は衰えが見え始めました。35歳から肉体改造を始め、1999年には再び幕内に復帰し、36歳で金星を獲得しましたが、2000年には十両に陥落。引退の声も上がる中、寺尾は続行を決意し、2002年9月場所で現役を引退しました。

現役時代、寺尾は甘いマスクと筋肉質な体型で女性ファンから人気を集め、敏捷な動きから「タイフーン」と呼ばれることもありました。晩年には父や兄が得意とした両差しの相撲を取るようになり、横綱を意識することはなかったものの、相撲界に多大な影響を与えた力士として記憶されています。

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麒麟児 和春(きりんじ かずはる)は、1953年3月9日 - 2021年3月1日)は、千葉県柏市出身の元大相撲力士で、二所ノ関部屋に所属していました。本名は垂澤 和春(たるさわ かずはる)で、最高位は東関脇です。現役時代の体格は182cm、146kgで、得意技は突っ張り、押し、左四つ、寄りでした。

彼は父が国鉄の駅長であったため、家事を手伝いながら育ちました。小学2年生から柔道を始め、中学入学時には体格を生かして相撲を志しました。中学2年生のとき決意をし、両国に向かい、二所ノ関部屋に入門。1967年5月場所で初土俵を踏みました。

1974年9月に新入幕し、好成績を収めて関脇まで昇進。特に1975年の天覧相撲では、富士櫻との激しい突っ張り合いが話題となりました。1979年に左膝を負傷し、以降はエレベーター力士として上下番付を繰り返しました。1988年9月場所で引退し、年寄・北陣を襲名しました。

引退後は解説者として活動し、視聴者に親しまれましたが、2015年から病気のため出演を控えるようになりました。2021年3月1日、多臓器不全のため67歳で亡くなりました。麒麟児の相撲人生は、努力と情熱に満ちたものであり、角界に多大な影響を与えました。

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