競馬


【懐古】あの名馬を振り返る(テンポイント)[1973-1978]


テンポイントは1970年代部門の第1位に選ばれている。 馬名の由来は、当時新聞の本文活字が8ポイントであったことから、10ポイントの活字で報道されるような馬になって欲しいという願いを込めてと名付けられたものである。当初はボクシングのテンカウントが由来だと誤解されていた。 テンポイント
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テンポイントは、1973年4月に北海道早来町の吉田牧場で生まれた名馬で、父はコントライト、母は桜花賞優勝馬のワカクモです。吉田牧場の吉田重雄は、コントライトの成功を目指して良い母馬との交配を試みました。テンポイントは生まれたときから特級の体つきを持ち、素直で頭の良い馬として育ちましたが、発育が悪く、怪我も多かったため、成長には苦労しました。

1975年にデビューし、初戦から圧倒的な強さを見せ、函館競馬場の新馬戦で優勝。続くレースでも好成績を収め、阪神3歳ステークスでは名実ともにクラシック候補としての地位を確立しました。1975年のシーズンを3戦3勝で終え、優駿賞最優秀3歳牡馬に選出されました。

1976年には東京優駿(日本ダービー)を目指しましたが、厩務員のストライキの影響で調整が狂い、皐月賞ではトウショウボーイに敗北。続く東京優駿でも7着に終わり、左前脚の剥離骨折が判明し、休養を余儀なくされました。復帰後の菊花賞では2着、年末の有馬記念でも2着に敗れ、「悲運の貴公子」と呼ばれるようになりました。

1977年、テンポイントは天皇賞(春)で初の八大競走制覇を果たし、宝塚記念では再びトウショウボーイに敗れました。年末の有馬記念では、ファン投票で1位に選ばれ、激しい競り合いの末に優勝し、年度代表馬に選出されました。

1978年、テンポイントは海外遠征を計画し、日本経済新春杯に出走。しかし、レース中に左後肢を骨折し、重傷を負いました。獣医師は安楽死を勧めましたが、多くのファンからの助命嘆願が寄せられ、手術が行われることになりました。テンポイントの闘病中は、一般紙やスポーツ新聞で大きく報道され、ファンからの応援が続きました。

テンポイントの生涯は、数々の名勝負と感動を生み出し、競馬界における伝説的な存在となりました。彼の物語は、競馬ファンにとって特別なものであり、今なお語り継がれています。

【手術と治療経過】
テンポイントは、日本中央競馬会によって特別な医師団が結成され、手術と治療を受けることになりました。手術は1978年1月23日に行われ、左後脚の骨折を特殊合金製のボルトで繋ぎ、ジュラルミン製のギプスで固定するというもので、約2時間を要しました。手術後、テンポイントは一時的に回復の兆しを見せましたが、体重をかけた際にボルトが曲がり、骨がずれたまま固定されてしまいました。

その後、2月13日には患部が腐敗し、右後脚に蹄葉炎を発症。食欲も減退し、全身が衰弱していきました。3月2日には病状が悪化し、医師団は治療を断念。3月5日、テンポイントは午前8時40分に死亡しました。死因は全身衰弱による心不全とされ、安楽死は行われず自然死でした。死亡時には体重が500kgから400kg以下に減少しており、馬主の高田はその衰弱ぶりにショックを受けました。

テンポイントの最期を看取った厩務員や騎手は深い悲しみに包まれ、彼の死は大きなニュースとして報じられました。NHKやフジテレビなどのメディアは、彼の死を特集し、全国にそのニュースが広まりました。テンポイントの死は、競馬界における大きな出来事となり、彼の存在が多くの人々に愛されていたことを再確認させるものでした。

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【懐古】あの名馬を振り返る(ハイセイコー)[1970-2000]


ハイセイコー(1970年 - 2000年)は、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。 ※馬齢は旧表記に統一する。 1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて…
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### ハイセイコーの人気と社会現象

ハイセイコーの人気は、もう社会現象と言ってもいいくらいの規模に達してたんだよね。競馬に興味がない人たちにも名前が知れ渡って、まさに国民的アイドルホースになったんだ。彼は「週刊少年サンデー」や「週刊少年マガジン」、さらには女性週刊誌の表紙にも登場して、オグリキャップが出てくるまでは日本競馬史で比較対象がなかった存在だったんだよ。このハイセイコーが引き起こした競馬ブームは「第一次競馬ブーム」と呼ばれていて、後のオグリキャップと武豊の活躍が中心となった第二次競馬ブームと並ぶ、日本競馬史の2大ブームの一つとされてる。

朝日新聞のコラム『天声人語』では、ハイセイコーが「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として取り上げられてるし、競馬評論家の赤木駿介は、ハイセイコーブームを「物質享楽とインフレーションの谷間に落ちた大衆が、純粋なものを求めた」と評してる。競馬評論家の井崎脩五郎も、ハイセイコーを1970年代の代表馬と位置付けてるんだ。

### ブーム形成の要因・背景

ハイセイコーの中央競馬移籍は、最初から大きな話題になってた。日刊競馬解説者の吉川彰彦は、なんで1頭の競走馬がここまで注目を浴びたのか不思議だと振り返ってる。マスコミはハイセイコーを擬人化して、「名もない地方出身者が中央のエリートに挑戦する」というストーリーを作り上げたんだ。これが当時上京してた地方出身者たちの共感を呼んだんだよね。

ハイセイコーが大井競馬場でデビューした1972年7月、田中角栄が内閣総理大臣に就任したことも影響してるかも。田中の姿がハイセイコーに重なり、「地方出身者の出世物語」が共感を集めたんだ。日本経済新聞の野元賢一は、ハイセイコーの物語が人気になったのは「出自がどうあれ、努力すれば成功できる」という認識があったからだと指摘してる。

### 現象

ハイセイコーの人気が高まる中で、競馬場には女性や子供のファンが増えて、従来の「男ばかりのギャンブルの世界」が変わり始めたんだ。競馬評論家の原良馬は、ハイセイコーの活躍によって競馬がギャンブルからレジャーに転換したと評価してる。ハイセイコーは「競馬を単なるギャンブルから大衆の娯楽にまで広めるきっかけを作った立役者」として語り継がれてる。

ファン層は子供や女性、老人など、馬券を購入せずにハイセイコーだけに興味を持つ人々にまで広がった。ファンの中には、ハイセイコーを見ようと厩舎を訪れる人も多く、親に連れられて子供のファンが厩舎を訪れることもあったんだ。鈴木康弘は、ハイセイコーに対するファンの愛情に感動したと回顧してる。

ハイセイコーのもとには日本全国から多くのファンレターが届いて、「東京都 ハイセイコー様」とだけ書かれたはがきが競馬場に届くこともあった。ファンレターの中には、ハイセイコーの懸命に走る姿に心打たれたという内容のものもあり、引退後も年賀状やクリスマスカードが届き続けたんだ。

ハイセイコーは少年雑誌や女性週刊誌など、さまざまなメディアで取り上げられるようになった。競馬界の枠を超えた存在として、ハイセイコーは日本の文化においても重要な役割を果たしたんだ。

### タケホープとのライバル関係

ハイセイコーの競走生活において、タケホープとのライバル関係は特に注目を集めた。タケホープは東京優駿や菊花賞、天皇賞(春)を勝ち、ハイセイコーの終生のライバルと呼ばれた。両者の関係は「人気のハイセイコー、実力のタケホープ」と評され、タケホープはハイセイコーのファンから敵役として憎まれる存在となったんだ。

タケホープが東京優駿を勝った際、多くの人々はその勝利をフロックと受け止めたが、タケホープの管理調教師はその実力を認め、菊花賞での勝利を目指した。両者の対戦は、競馬界における重要なストーリーとなり、タケホープはハイセイコーのライバルとして認知されるようになった。

タケホープとの対戦を重ねるうちに、両者の特性が明らかになり、タケホープは長距離で、ハイセイコーは中距離で強さを発揮することが分かってきた。タケホープは長距離レースでの実力を示し、ハイセイコーは中距離での強さを維持した。

1974年の有馬記念では、ハイセイコーがタケホープに先着したことがファンに喜ばれ、両者の競り合いは競馬界の注目を集めた。タケホープとのライバル関係は、ハイセイコーの人気をさらに高める要因となり、競馬界における伝説的なストーリーを形成したんだ。

### まとめ

ハイセイコーは、その競走成績や人気から日本競馬史に名を刻む存在となり、ファンに愛され続ける馬として記憶されています。彼の登場は、競馬界における文化や社会的な変化をもたらし、競馬を単なるギャンブルから大衆の娯楽へと変貌させるきっかけとなりました。また、タケホープとのライバル関係は、競馬界における重要なストーリーとして語り継がれています。ハイセイコーの生涯は、競馬界における「怪物」の名にふさわしいものであり、その影響は今もなお色褪せることはありません。

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